第33話 守れなかった約束の行方
人の三倍はあろうかという体躯に黒光りした身体。大きさを度外視すれば人間と近しい体つきをしたその生物の相違点を挙げるとすれば、側頭部から生えた二本の大きな角であろう。
深淵を覗き込むことすら出来ない程に黒く塗りつぶされた目は、全てが瞳の如く単色であり、その瞳の色より更に濃い漆黒に染まった炎が口元からチロチロと覗かせている。
僅かに沿った形状の肉厚のグレートソードを手にしており、それを片手で苦もなく上げていた。
ソニンに押さえつけられるように地面に横たわるカリンの目の先に映るのは、既に壊滅状態にあったデミル村の惨状であり、それでもまだ足りないのか、村の建物に次々と火の手が上がっていく。
恐らく、駆除され切っていないヘルハウンドがまだいるのだろう。
「……ソニンさんどいて。あいつは……あいつだけは私が……」
「だ、駄目よ……。すぐに逃げないと。あれはデーモンです。普通の人間が叶う相手ではありません」
ソニンを押しのけるように立ち上がり、デーモンに向かって行こうとするカリンにソニンがすがりつくが、そんなソニンを振り払ってカリンは叫ぶ。
「私は! 私はレオンと約束したんだっ!! それがこんな……こんな……。お父さんまで殺されて、何もせずに逃げるなんて出来るわけないでしょ!?」
「やめて! 無駄に命を散らすだけです!」
「無駄じゃない!!」
カリンの悲痛な叫びにソニンはビクリと体を震わせる。
「ここで逃げて……何もせずに逃げて!! それで生き残って私はレオンにどんな顔して会えばいいの!? 失望されるくらいならまだいいよ。でも、もしも見捨てられたら……? そうなったら私はもう……。そんな事になるくらいなら、ここでお父さんと一緒に死んだ方がましだよ……」
憎悪に染まった表情はそのままに、ツッと涙を落とすカリンの横顔を目にして、ソニンはカリンの腰に回してた手を解くと、その背中に右手を当てる。
「大地に宿りし守護神マグナよ。世を清め、汚れを打ち払う聖神よ。この者に魔を打ち払い、御身の剣となる事を認め給え。【聖騎士】」
詠唱の終と共にカリンの体が淡く光り、心を占めていた憎悪の感情がゆっくりと薄れていくのをカリンは感じる。
そして、全身に嘗てない程の力が漲り、前方のデーモンから沸き立つ黒い魔力も感じる事が出来るようになった。
「これは……」
「貴方にマグナ様の加護を与えました。本来これは聖戦に赴く際に神殿騎士に施す魔術ですが、私はこの戦いは聖戦と認定して良いと思っています」
そして、カリンから手を離すと横に立ち、ソニン自身もデーモンに向かって目を細めて。
「ここで貴女に死なれてしまっては、それこそ、私はレオンさんに顔向けできません。私がバックアップをします。やるだけやって、それでも敵わない時は……共にマグナ様の元に参りましょう」
「ありがとう。ソニンさん」
カリンはソニンにお礼を言うと、剣を構えてデーモンに向かって駆ける。
それはこれまでのカリンの動きを凌駕する、それこそ飛ぶような速度だったが、デーモンは向かってくるカリンに体を向けると、手にしたグレートソードを振り下ろした。
その剣戟をカリンはサイドステップで交わすと、そのまま速度を上げて肉薄する。
そして、通り過ぎざまに細剣の一撃を叩き込むが、その手に伝わってきたのはまるで金属に刃を当てたかのような硬質な感触だった。
「ぐっ! これは──」
「大地に宿りし守護神マグナよ! 神の使徒たる聖騎士に護りを! 【聖鎧】!!」
手の痺れに顔を顰めたカリンだったが、直後に耳に届いたソニンの詠唱と、体を包んだ光が大きく広がった事で異常事態を察知して体を真横に飛び込むように投げ出すと、回転して起き上がる。
そこに映っていたのは、先程まで自分が居た場所を黒い炎が舐める瞬間だった。
「聖鎧さえも貫くなんて……」
カリンの元に走って移動してきたのだろう。
息を切らせて呟いたソニンの言葉にカリンも歯噛みする。
ソニンの魔術は本物だ。
しかし、その力を借りて以前よりも遥かに力を増したカリンの攻撃さえも通用しない目の前の敵に、それでも剣を握り締めて睨みつけた。
ある程度距離をとったからか、それとも、いつでも殺せると思っているのか、デーモンの動きは緩慢だ。
それでも、一歩一歩カリンとソニンとの距離を詰めてくるデーモンに、カリンは剣を顔の前で刃が横向きになるように構え、一歩を踏み出す。
「──せめて一太刀通す。私が教わったレオンの剣は、こんな奴に止められるものじゃない」
「いいえ。止まりなさいカリンちゃん」
気を込め、今まさに飛び出す寸前だったカリンの前進を止めたのは、後方から聞こえた声だった。
いや、声だけではない。
声と同時にカリンの耳に風切り音が届き、唸りを上げた黒い矢が、カリンたちに近づいてきていたデーモンの額に突き刺さった。
「……あれでも死なない……か。やっぱりダメみたいね」
「ヒルダさん!!」
暗闇から聞こえた声に、カリンとソニンはデーモンに警戒しながらも闇の中に飛び込むと、そこで木に寄りかかるようにして弓を手にしていたヒルダに駆け寄る。
ヒルダは酷い姿だった。
美しかった銀髪は血で汚れ、頬や額に張り付いて目にも光が点っていない。
両腕はなんとか無事なようだが、左足はあらぬ方向に曲がっており、木を背にしているとは言え、立っていること自体が無茶としか言えない状態だった。
それでも、ヒルダは再び黒い矢を弓に番えるとデーモンに向ける。
「逃げるのよカリンちゃん。後一回これを射つからから、そうしたら私を抱えて村の入口まで走って欲しいの。それから、そこの司教さんはあまり力は使わずに一緒に来てくれないかな? そこでどうしても助けたい人が──」
「何言ってるのヒルダさん!? このままだとあいつに村が滅ぼされるよ!! お父さんだって、村長さんだってみんな殺されちゃったんだよ!? それに私はレオンと──」
「終わったのよ。カリンちゃん現実を見なさい。もう全て終わってしまったの。この村はもう……」
「終わってない!! だって、私はレオンと約束したんだっ!! あいつを倒せばきっとなんとかなる! まだ生きている人だってきっといるよ! だから──」
「それはカリンちゃんの都合でしょう!? 急がないとアンドレが死んじゃうのよ!!」
矢を放ち、倒れこむようにカリンとソニンを抱え込むと、ヒルダは倒れながらもカリンの胸元を両手で掴んで額を合わせる。
その顔は、今までカリンが見た事もない程に狂気に浮かされたものだった。
「……これも私の事情だっていうのもわかってる。でも、あいつは皆を守る為に頑張ったのよ。頑張って頑張って……やっとなんとかなったと思ったらあんなのが来た。幸いだったのはアンドレがアイツに歯牙もかけられないくらい弱っていたってこと。でも、それでも、例え小虫を振り払うように扱われただけだとしても、今のアンドレは死にかけてるのよ!! でも、生きてる!! 辛うじてだけど生きているなら、そこの司教さんが助けてくれるはずでしょう!?」
「そ、それは……」
転がったカリン達の頭上を黒い炎が通り抜け、森の木々を一瞬で燃やし尽くす。
ヘルハウンドが発生させている火事に比べれば火が残らないだけマシだろうなどという感想など出るはずもない。
少なくとも、森がなくなった事で闇の隠れ蓑がなくなって炎の灯りに照らされたヒルダの狂気に満ちた瞳を真っ直ぐに見てしまったソニンは特に。
……回復魔術はそれほど都合の良いものではない。
それこそ、瀕死の人間を治癒する事が出来る術者など、ソニンが知るだけでも枢機卿か、教皇くらいしかいなかった。
ソニンクラスの術者では、せめて痛みを取り除いて死を安らかに与えるくらいしかできないだろう。
しかし、悪魔に取りつかれたようにソニンに目を向けるヒルダにその様な事を言えるわけもない。
組み敷かれたカリンも苦しそうに呻いており、まるで人質に取られたようだった。
それでも嘘を付けないのがソニンという人間だったのだろう。
直接ではないとは言え、遠まわしにその事実を伝えようと口を開きかけたソニンの言葉を遮るように、その声は全員の頭上から降ってきた。
「……ということらしいが、随分と愛されておるの」
「いや……何というか……お恥ずかしい限りです」
倒れていた全員の頭に?が浮かび、視線が2人に集中する。
もっとも、その一人である赤い鎧を纏った銀髪の少女は、軽やかに3人を飛び越えると、腰の宝剣を抜き放ち、迫ってきていた黒い炎を切って捨てた。
集まっていた全員を避けるように左右に切り裂かれた黒い炎。
その元凶に相対して、背を向ける少女の事など目に入らないとばかりに3人が見つめているのはローブ姿の男性だった。
着ているものはボロボロではあったものの、黒い長髪を揺らしたその青年は、その体そのものは無傷のように見えたのだ。
「……アン……ドレ……?」
「ああ。僕だよヒルダ。よくここまでカリンちゃんたちを守ってくれたね。今はまだ帰ってきていないレオンに変わってお礼を言うよ。ありがとう」
「本当に……アンドレ? 幽霊とかゴーストじゃなくて?」
「ああ。アンドレだよ。幽霊でもゴーストでもレイスでもスペクターでもない。正真正銘の魔術師アンドレだ。最も、アイリスさんに助けてもらわなければきっと助からなかっただろうけどね」
ヒルダに近づき跪くと、ヒルダの顔にこびり付いた血を拭って、アンドレは微笑む。
その顔をポカンとした顔で眺めていたヒルダだったが、やがてその両目からポロポロと涙を零した。
「あ……あああああああああああぁぁ……」
「心配かけたね」
「本当だよ!! アイツに振り払われるあんたを見た私がどれだけ……うう……本当に死んじゃうかと……」
「お叱りは後でゆっくり受け付けるよ。今はそれよりも──」
ヒルダに押さえ込まれていたカリンを助け出し、ヒルダを抱き上げながらアンドレが目を向けるのは赤い鎧の銀髪の少女。
その少女──アイリスは光り輝く宝剣を振りかざすと、カリン達に背を向けたままデーモンに向かって剣を向ける。
「心配せんでもあの程度の相手に遅れは取らぬさ。本当に我を討伐したいのなら、せめて本物を連れて来るべきだったな」
まるで散歩でもするように軽い調子でデーモンに近づき、近づいたことで振り下ろされたグレートソードの一撃を宝剣一本でアイリスは防ぐと、そこでようやく──怒りという名の感情を爆発させた。
「──我らをここから引き剥がし、鬼の居ぬ間に蹂躙できて満足か? 高々魔神の使い魔の分際で。だが、満足できたならそいつを手土産に戻るといい」
宝剣をそのまま振り抜き、まるでバターのようにグレートソードを切り飛ばすと、冷淡な目つきでアイリスは告げる。
「──貴様を送り込んだ主人の下までな!!」
それが地獄であろうとも──。
アイリスが振り下ろした宝剣のひと振りは一本の光の帯となり、黒き悪魔の存在をその地上から打ち消した。
◇◇◇
「……村が燃えている……」
村を一望できる丘の上で佇んで、金色の髪を風に揺らした少女が声を漏らす。
視線の先に見えるのは空まで真っ赤に染めた激しい炎。
その炎は、短い間とは言え少女が暮らしていた住処を燃やしていた。
「……後悔なさっておいでですか?」
その少女に声をかけたのは騎士の鎧に身を纏った男だった。
一歩後方に立ち、同じように向ける先には燃えた村が映っている。
「いえ……」
しかし、少女は男の言葉に首を横に振る。
「こうしなければ兄さんが助かる道はなかったのでしょう? ならば、私は自分の行いを後悔したりしない。兄さんが助かるならば、その道は私にとっての正義なのだから」
少女は燃える村に背を向けると、騎士に向かい合う。
「それは貴方も同じ。お互い守るべき人の為に決断した結果がここにある。それがいかに人の道に外れたものだとしても、万人の正義が個人の正義とは限らない」
少女の言葉にも騎士は何も語らない。
ただ、歩き始めた少女の後ろに付き、護衛の如く付き従うだけだ。
「私はこの世界が憎い」
歩きながら零した少女の言葉は誰に聴かせるでもない独り言。
だから、これは少女自身がこれから歩く自分自身の道に対する決意の表れ。
「だけど、本来であれば死ぬしかなかった私を救ってくれた兄さんだけは別。それに、あの人は今では私が認めるたった一人の肉親だから」
そこで少女は足を止め、今では赤く染まった空しか見えない兄が向かっているであろうその場所に想いを飛ばす。
「兄さんを救う為なら私はいつでもこの世界を壊してみせる。だから、それまでどうか待っていて……」
その言葉を口にした後は少女はそれ以降は何を口にするでもなく只々歩く。
神官服を来た少女と、その背を守る神官騎士の姿をみて不審に思うものはいないだろう。
その2人の想いも目的も違うものだが、その過程は同一のものだった。
だからこそ、本来であれば共に歩くはずのなかった2人は手を結んだのだ。
やがて2人の姿はバストールの開拓地から消え失せる。
向かう先は数々の国が犇めく大陸中央部。
そして──。
その先には嘗て未踏破領域と呼ばれた旧魔族領。
現在はライラックと呼ばれる小国があった──。
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