第86話 キスマーク

 何事もなく週末を迎えるはずだった。その予定だった。


 透の講義が終わる時間まで、連絡を入れてカフェで待っていた。いつもと同じ気分でわたしは彼を待っていた。片手には今日買った新しい本を持ち、コーヒーを飲みながらページをめくった。

 本が思った以上に面白かったので、透が帰ってくるまでの時間の長さはさほど気にならなかった。

 彼は、下を向いて飲み物を買うでもなく、直接わたしのところに歩いてきた。


「どうした……」

 明らかに誰かと殴り合ってきたんだと、顔を書いてあった。今までそんなことは一度もなかったので、わたしの方が動揺してしまった。

「なんで? どうしたの?」

「遅くなってごめん。医務室に寄ってきたから大丈夫だよ」

 彼は席に座ると頭を抱えて、はーっと大きくため息をついた。何かを聞いてもいいのか迷った。でもきっと、透を殴ったのは成海で、成海を殴ったのは透なんだろうと思った。

 透は普段、落ち着いているのだけど、成海の方は感情に流されやすい。成海が何かしたんだろう……。


「成海に殴られたんだとしたら、ごめんなさい……」

「なんで凪が謝るの?」

「だって……」

「凪はボクの彼女なんだから、西尾のしたことでボクに謝るなんておかしいだろう?」

 正論だった。

 わたしが成海のしたことで透に謝るのは間違い以外の何でもなかった。ごめんなさい、という言葉がもう一度口から思わず出そうになり、飲み込んだ。


「何があったか聞いてもいい?」

「……西尾が、凪は自分の彼女だって言ったんだ」

「え、どうして? どうしてそんな話になるの?」

 透はまたひとつ、大きなため息をついた。そしてわたしから目をそらせた。

「今日、仲のいいやつの間でたまたま凪の話になったんだよ。凪を見たことのあるやつの方が多いしね。まぁ、凪はやっぱり人気なんだよ。誰かが大っぴらにほめたんだ、そしたらさ」

「そしたら?」

「後ろからやつが来て、凪は本当は自分のものだって……」


 黙ったまま、成海を殴る透の姿を目の前で見た気がした。カッとなったのは透だ。そして、殴らなければいけない原因を作ったのはわたしだ……。

 ごめんなさい、という言葉がまたわたしの口を突いて出ようとした。わたしが原因なのは確かだから。

「この前は、『殴ってやればよかった』なんて言ったけど、今は殴るなんてバカなことだったと反省してるよ。あんなやつの言うこと、笑ってやればよかったんだ。それなのに……」

 何もしてあげることができなくて、そんな自分が情けなくなる。そっと触れたいけれど、痛そうでそれもできない。


「泣きそうな顔、するなよ」

 わたしの方が抱きしめられてしまう。それでは反対なのに。

「凪が泣かなくても済むようにするのがボクの役目なんだよ。こんなことになってしまって、ごめん。かえって心配かけたよね」

「ううん、わたしはいいの。何を言われても本当だから。でも、透が傷つくのは嫌なの……」

「大丈夫だよ。たまには男らしいところも見せておかないとね」

 透は冗談を言って笑った。わたしはとても笑うことができなかった。




 翌日、仕事のあと、何も言わずに成海の部屋に行った。成海の連絡先は知らなかったので、直接、部屋に行った。どのくらい待つか見当はつかなかったけれど、何となく待っていれば彼はやって来るような気がした。また雨が降っていて、傘をさして部屋の前で少し待つと、案の定、すぐそばのコンビニの袋を提げた彼が帰ってきた。

 わたしは成海の真意が知りたかった。こんなことを続けていても何もならないことくらい、彼にだっていい加減、わかっているはずだ。わたしは透とつき合っていて、成海とはもう関係がないということを、お互いにはっきり知る必要があると思った。引き裂かれたままだったわたしたちは、他人の力で別れたのではなく、今となっては「別れた恋人」なのだと。


「凪……どうしてここにいるの?」

「話をしに来たの。連絡先も知らなかったし」

「バカだな、昔から変えてないよ。凪から連絡があってもいいように」

「……わたしの方は消しちゃったの」

 とにかく入りなよ、と少し寂しげに彼は部屋に入れてくれた。忘れなくちゃならないともがき続けたわたしとは反対に、彼は本当にずっとわたしを思い続けてくれたんだなと思うと、なんだか心苦しかった。


「柿崎のことでしょう? 殴ってきたのはあっちだけど、殴り返して悪かったよ」

 透はケトルでお湯を沸かして、紅茶をいれてくれた。

「どうして透が怒るようなことを言ったの? 透は必要もなく誰かを殴ったりする人じゃないのに」

「うん……腹立たしかった。みんなの前で、凪を彼女だと正々堂々言える柿崎が」

壊れ物に触るように、成海がわたしの髪に触れる。その手は顎に滑って、あの頃に戻ったようなやさしいキスをする。お湯の沸く音が聞こえる。


 成海が紅茶の入ったマグカップをローテーブルに置いた。ことん、と小さな音が鳴る。依然、雨音が外を支配して、室内の音を閉じ込めている。

「本当はずっと、僕の方が柿崎を殴りたかった。痩せ我慢だよ。目の前にふたりを見て……。ずっと僕が凪に気がつかなかったと思う? あのベンチで凪がカバンを落とした日に、僕は気づいてたんだ」

 狭い部屋で退いてもそこには壁しかなく、すぐに捕まってしまう。

「凪のことをみんなに言われる度に笑ってる柿崎が許せなかった。凪はいつか僕に気がつくと思ってた」




「キスマークついてる……」

「あ……」

 この前、透が首筋につけたキスマークがまだ残っていた。





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