第85話 特別な人
その日は成海はわたしのバイト先に現れなかった。ホッとしたような、がっかりしたような中途半端な気持ちになる。
透はバイトが遅くまであるので、いつものカフェで彼のバイト先の看板が見える席に座り、ひとりでソイラテを飲む。まばらではあっても、人の中に紛れていたかった。
「やあ」
振り向いてその人を見ても言葉がすぐに出てこなかった。
「……小田くん」
「こんな風にまた会うなんて思わなかったね」
「うん」
夏のあの日以来、偶然でも彼に会うことはなく今まできていた。
「実はね、何度か見かけたんだ。でも凪……相澤さんは彼といたからさ」
「『凪』でいいよ」
「なんか、沈んでるの?」
躊躇した。あまり人にできる話でもなかった。軽蔑されるだろうと思った。
「凪は高校生キラーだったのか」
「……茶化さないで」
小田くんは朗らかに笑って、わたしを赤面させた。
「柿崎くんが年が離れてて驚いたのに、その前に柿崎くんと同い年の子とつき合ってたなんて、なんか、驚いた。凪は母性が強そうに見えるのかなぁ?」
「そんなのわかんない。ただ、たまたま続けてつき合うことになったのが年下の子だっただけ」
「ふぅん。それは確かにお互い、嫉妬するよな。今つき合ってる柿崎くんのほうにアドバンテージ、あるだろうけどさ」
対抗意識でふたりが競い合っているだけなら話は単純になるんだけど……。
「まぁ、でも凪が忘れられない人なんだよね、その子にとっては。嫌われたわけじゃなくて奪われるように別れたら、忘れられなくもなるよ。わかる気がするな」
「わたしだって……別れさせられたときは死んでしまいたいと思うくらい辛かった」
「けど凪は柿崎くんが現れて新しい恋を始めた。凪との恋を忘れられなかった彼を残して。それは凪のせいではないけど、辛いよな」
何か買ってきてあげる、と言って小田くんは席を立った。成海の気持ちがわからない。ただ、忘れられなくてしがみついているのか、それとも本当にいまだにわたしを本気で好きなのか。どちらと言われても、わたしは彼に応えることはできないけれど。
スマホの着信ランプが光る。
『家にいる? バイト終わったんだ』
『いつものカフェにいるの』
『いますぐ会いに行く』
自転車で息を切らして走ってくる彼の姿が脳裏に浮かぶ。わたしに会うために、暗い中を走ってくる。
「お待たせ。カフェラテでよかった?」
「ごめんなさい、透が来るって」
「ああ……じゃあオレのは持って帰るからそんな顔しなくていいよ。また悩みすぎる前によかったら相談に乗るよ。下心なしでね」
あんなことがあったのに、小田くんといると空気がやわらかくなる気がした。リラックスして気兼ねなく話せる、そんな人が自分にいてくれることがうれしい。
店の自動ドアが開いて、透の姿が見える。彼は本当に息を切らせていて、わたしの姿を見つけるとアイスコーヒーを持って席に座った。
「西尾がまた来たわけじゃないの?」
「来てないよ。偶然、小田くんには会ったけど」
後半は秘密にしておこうかとも思ったけど、後でそれが何かの火種になるのは嫌だったので、包み隠さず話した。
「小田さんかー」
透はテーブルに突っ伏した。コーヒーが小さく波立つ。
「ボクの彼女はモテるよなー。うれしいけど、嫉妬で身が焦げそうだよ。一瞬でも目が離せない」
「そんなことないよ。わたしはつまらない女だし」
透がわたしの手首を片方握って、彼の方に向かせる。わたしは彼の目をのぞき込んだ。
「つまらないなんて言わないで。ボクの特別な人はつまらなくないよ」
「……ありがとう」
「でも、凪が特別だってことはボクだけが知っていればいいことなのになぁ」
「ごめんなさい」
透の手が手首を離してわたしの耳の裏へ回る。くすぐったくて、甘い気持ちになる。
「謝らないで。だけど、他の人の前で魅力的にならないで。ボクの前だけで魅力的でいて」
「そんな難しいことできないよ」
「お願いだから……ボクの凪のままでいて」
わたしの恋人は年下で、落ち着いていて、そして時々、情熱的。隠しているけれど、本当は知っている。彼は強い気持ちを持っていて、わたしを離さない。
「お母さん、気づいてなかった?」
「さあ、何も言われなかったけど」
「気づいてたら、嫌われちゃうな。ボク、凪のお母さんのことすきだよ。結婚したら……あ、そうなったらだけど、お母さんも一緒に暮らそうね」
「ありがとう……」
普段、「結婚」という二文字を軽々しく使いたくないと言っている透が、そんな風に言ってくれるのはとてもうれしかった。お母さんの話だったけれど、それはわたしとの結婚を前提にしていて……いつか、そんな日が来ると楽しいだろうと思った。
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