第56話 ただの「女の子」
「あの」
櫻井さんが驚いた顔をしてフォークを置いた。
「凪ちゃん、真剣な顔で突然どうしたの?」
「……」
言い出したのはわたしなのに、上手く言葉にならない。どうやって切り出したらいいのかわからないまま、もどかしく、時間が過ぎていく。
「柿崎くんのこと?」
「うーん……そうなんだけど、そうじゃないことかも」
「複雑なんだね」
櫻井さんはスパゲティ・ボンゴレのアサリをいつも見事に食べてしまう。わたしは貝殻を避けて食べるのが面倒に感じる。人前だと余計に。今日は春物のほうれん草とアサリのパスタ。
わたしは保守的に、トマト味のパスタ。
ストレートのアイスティーのグラスに口をつけて、一息つく。
「櫻井さん、わたし、都合がつくならお休みの曜日を変えてほしいんです」
櫻井さんのフォークが止まって、代わりに紙ナプキンで口の周りを丁寧に拭いた。
「理由は言わないでいいから、具体的にいつがいい?」
「怒らないんですか?」
「アルバイトで曜日、変えたいってよく言われることだよ」
そう言われると確かにそんな気もしてきて、話しやすくなる。
「あの! できれば月曜日で、ダメなら金曜日にお願いします」
頭をテーブルにぶつけそうになる。
「うん、調整してみるよ。彼、喜ぶね」
「……わたしも少し外に出てみようと思って。彼が手伝ってくれるって言うから」
「了解」
人の良い笑顔で、櫻井さんは笑った。
そんなことを櫻井さんにお願いしたことは、透には内緒だった。第一に恥ずかしかったし、第二に恥ずかしかった……。
自分の都合で仕事の時間を変えてもらうなんて、ちょっと前のわたしなら考えられなかったから。
もうすぐ6月。
しとしとと、雨の降る日が多くなる。
『迷惑じゃなかったらなんだけど、月曜、お昼に待ち合わせしない?』
既読はついたのに、返事はなかなか来ない。勇気を出したのに、今回は空振りかなぁ。
『凪、ボク、その日学校だよ?』
『だから、学校で』
直電が書きかけの言葉を消し去る勢いでかかってくる。
「凪、今からちょっと行くよ」
「え? 今から? 」
プッ、と小さい音がして電話が切れる。せっかちだなぁ。
「雨に濡れたでしょう?」
タオルを持って外に出る。お母さんは寝ているようだったので、そっと2階に行く。透は濡れた髪とパーカーを軽くタオルで拭いて、こっちを見た。
「こんなに遅い時間に雨の中、自転車で出てくる人、いないと思うんだけど」
わたしはくすり、と笑った。彼はちょっとだけ子供じみた拗ねた顔をした。
「月曜日、休み取ったの?」
「あー」
丸ごとすべてを話すのは少しだけ勇気が必要で、言い淀む。
「んーと。お休みの曜日を、櫻井さんにお願いして変えてもらったの。ほら、わたしは週末どちらかか、水曜日休みだったじゃない? 透、水曜日は実習あって遅いから会えないし……」
「……」
自然、前髪に手をやって、目を逸らしてしまう。彼の顔を見るのが少し怖かった。驚かせたい気持ちがわたしにはあったんだけど、やっぱり相談してからにすればよかった。
「お昼にどこで待ち合わせようか? でもボク、3コマはあるから、ゆっくり食べられなくてもいい?」
「……わたしのこと、バカだと思ってる?」
「ちっとも思ってない」
ぎゅうっと、しっかり抱きしめられる。
「どうしちゃったの? 急に」
「……会いたいの、もっと。我慢する方が大人なのかなぁ、やっぱり」
「凪、この間まで年が上なこと気にしてたのに、今より大人になりたいの?」
透が耳元でくすくす笑うから、わたしの髪の毛が震えてくすぐったい。……確かに、今より大人になりたいなんて、バカだな、わたし。結局、頭の中は子供のままなのかもしれない。
「子供っぽかった?」
「ううん、『女の子』だと思う」
「お昼食べて、講義ひとつ受けたら終わりだから。その間だけ待ってて」
つま先立ちの長い長いキスのあと、耳に残るやさしい声で囁かれる。
「うん」
踵をついたら彼をまた雨の中、帰さなければいけないと思うと胸が軋む。夜の中を自転車で帰る後ろ姿を見送るのだろう。
わたしはただの「女の子」になって、彼の腕にすっぽり収まって小さくなる。彼の腕の中はわたし一人分、ちょうど空いている。このまま、どこかに攫ってくれたらいいのに……。
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