その3 正義の味方

「久しぶりだね、祐」

「あ、ああ。そうだな。ひと月ぶりか」


 俺もマトも、視線を落として言葉が続かない。聞きたいことも、言いたいこともあったのに、なにから切り出せばいいのかわからなかった。

 俺は台風の夜以来、一度もマトに会うことはなかった。会いたくなかったわけじゃない。マトよりも、自分の方が会いたい気持ちが強いことを知られるのが嫌だっただけだ。こいつはそういうのには疎そうだから、きっと「会いたい? なんで?」なんて、心が折れるようなことを簡単に言っちゃいそうだった。


「なんか、雰囲気変わったな」

「うん……ちょっと、ね」


 ちょっと、じゃないだろ。元々艶やかな長い黒髪はシャギーを入れたのか、軽やかに首筋で揺れる。スッピンなのは相変わらずだけれど、全体的に明るい雰囲気なのは――明るい雰囲気なのは……


「眼鏡、やめたのか」

「……やめたんじゃないわ」


 マトは言い訳をするように言う。もしかして、それは眼鏡をプレゼントした俺の手前、気まずいってことなのか?


「今日はその、パスポートの写真を撮るのにコンタクトにしただけ」

「鴻上先生に勧められたとか?」


 マトは答えない。それは肯定と同じだった。


「鴻上せ――鴻上さんの会社に行くんだって?」

「……うん」


 ぼそりとしたマトの声が心を抉る。俺の眼鏡を捨て、鴻上のコンタクトを付けたマトは、俺のいる学校を出て鴻上の会社に行く――それだけでもヒットポイントはほとんどゼロなのに、垢抜けた容貌で、俺を気遣うように口ごもる様子が耐えられなかった。

 俺は唇を噛みしめて、溢れてきそうな言葉を必死に堪えた。今、口を開いたらきっと、俺は酷いことを言ってしまう。感情の向くままに、ただ、マトを傷つけてしまう。


「祐には――」


 こんなときでも、俺だけに向けられる呼び方が切なく琴線に触れる。少しばかり嬉しい自分に呆れそうになる。だが、マトの次の言葉はそんな俺の気持ちを吹っ飛ばした。


「祐には、会いたくなかったの」


 思っていた以上の言葉だった。


「私、避けてたの。祐がよく公園に来てることは知ってた」

「なん……で、だよ」

「わかんないよ」

「――よかったじゃん。アメリカで専属のバグバウンティハンターやるんだろ? 契約金すごいんだってな」


 それ以上言うな。俺は自分を傷つけながら、マトに向かっていく言葉の刃を必死に押しとどめようとしていた。


「俺ともずっと会わずに済むし」


 やめろ。言うな。


「大好きな鴻上と一緒に働けていいことづくめだ」


 やめてくれ――そう願う俺の気持ちと裏腹に、一番言いたくない言葉があふれ出る。俺は両手で顔を押さえた。


「いいことづくめ――そう、なんだよね」


 マトの声が妙に遠く聞こえる。否定してほしくて、わざわざそんなことを言った自分の幼稚さが情けなかった。


「でも、なんでかな。ずっと望んでたことだったはずなのに、なんで嬉しくないんだろ。それに――」


 俺は手で顔を覆ったまま、マトを見た。マトもまた、両手で顔を覆っていた。


「なんで――祐の目が見れないのかな」


    *


 部屋では頭がおかしくなりそうでとても話ができない、というマトの言葉に従って、俺たちは公園にやってきた。俺自身、同じ思いだったからマトがそれを言ってくれたのは助かった。

 プールそばの木立の中にあるベンチに座る。ふた月前に水着のマトと並んで座ったベンチだったけど、蝉の声はひぐらしに変わっていた。


「コーコー……鴻上さんは小学生の私にコンピュータの手ほどきをしてくれたの。その頃はなにをしているのかは知らなかったけど、近所の開発会社で働いていたのね」


 俺は田村のことを思い出した。鴻上が働いていた開発会社の社長だった田村は、俺たちの学校のネットワークを悪用し、数万人分のクレジットカードを窃取しようとして逮捕された。


「そのうち、鴻上さんは自分にしかできないことにチャレンジしたい、と言って海外に行ったのよ。最初はシアトル、それからラスベガス、フランス・モンペリエ、そして今はワシントンDCのサイバーセキュリティ会社で働いてる」

「それがゼロリウムか」


 マトはこくん、とうなずく。


「私はいつか一緒に働きたくて、それでバグバウンティハンターを始めたの。もしかしたら鴻上さんの目に留まるかも、と思っていつも実名で報告したわ」

「夢が叶ったわけだ」

「あ、マトねえちゃんとそのおとこだ!」

「誰がおとこだっ!」


 突然割り込んできた子供の声に反射的に答える。見るとあしたば園の子供たちだった。小学二、三年生くらいだろうか。やんちゃそうな男の子と、面倒見よさげな女の子で買い物帰りのようだった。男の子の方はベンチの後ろから、俺とマトの間にぐいっと上半身を割り込ませてきた。


「今日、このにいちゃん、あしたば園に来てたんだぜ」


 男の子は俺の顔を指さしてマトに言う。


「そうなんだ、へえ」

「にいちゃん、マトねえちゃんがアメリカに行くってこと知らなくてさ、『俺は落ち着いてます!』って大声だしてマジびびったぜ」

「よく聞いてんな、お前……」


 俺は頭を掻いた。マトは「そう……」と、こちらもなんとなく気まずそうな反応。しかし、男の子はまったく気にすることなくグイグイきた。


「マトねえちゃんとコーコーの会社ってなにする会社なんだ?」

「んーと、セキュリティの会社。セキュリティってわかるかな?」

「わかんない! なにそれ」


 元気だけはいい。マトはちょっと考えてから言った。


「セキュリティってのはね、悪い人から大事なものを守ることよ」

「じゃあマトねえちゃんの会社は悪い人と戦ってるんだね! すげぇかっけぇ!」


 そうか。マトの仕事は「悪い人からみんなを守る正義の味方」ってわけだ。たしかにそうかもしれない。俺は微笑ましい気持ちでマトを見た。


 なぜか、マトの表情は凍り付いていた。

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