その2 We pay BIG bounties, not bug bounties

「鴻上――さんは今はうちの高校の先生ですよ――非常勤かもしれないけど」


 俺の言葉に園長先生はまた、首を横に振った。


「マトちゃんの学生姿を見たかったから、滞在してる間だけの短期の非常勤講師に応募したって言ってたわ。あちらでは二ヶ月くらい休みを取れるんですってね。なのに、マトちゃんたらずっと学校休んでて――あの子も恥ずかしがり屋だから」


 マトが恥ずかしがり屋? 俺の前でも平気で水着を脱いだり、ノーブラで肌を寄せてくるのに? あいつが恥ずかしそうな素振りをしたことなんて――。


 あった。


 あの、台風の夜のことがフラッシュバックする。鴻上に綺麗になった、と言われて恥ずかしそうに俯いたマトの表情。それは、俺に見せたことのない恥じらいだった。俺はまたこみ上げてくるむかつきを抑えながら訊いた。


「鴻上さんの会社ってどんな会社なんですか?」

「えっと、コンピュータの会社なんですけどねえ、横文字は覚えにくくって。たしか、ゼロなんとかって言ってたかしら」

「ゼロ……ゼロックスとか?」

「うーん、そんなような、違ったような。政府とも取引がある、その業界では一番大きな会社なんですって。ええっと、ちょっと待ってね」


 そう言うと園長先生は台所に姿を消した。

 たしか、ゼロックスはコピー機の会社だったはずだ。でも、コンピュータを手がけていてもおかしくないような気もする。スマートフォンで検索してみると有名なコンピュータ関係の研究所を持っているようだった。そんなところで働けるのなら、マトにとってはまたとない話かもしれない。


「んーと、ゼロ……リウム? ていうのかしら」


 園長先生は老眼鏡を鼻に乗せて戻ってきた。手には数枚の書類がある。契約書らしいその紙には確かに「ゼロリウム」という文字があった。

 俺は手にした麦茶を一気に飲み干し、椅子に腰掛けたばかりの園長先生に話しかけた。


「すいません、もう一杯もらえませんか?」

「あらあら……ちょっと待っててね。よっこらしょっと」


 園長先生は大儀そうに背もたれに手をかけてから立ち上がった。


(ごめんなさい、園長先生)


 俺は心の中で園長先生の背中に謝ると、素早くテーブルの上の契約書をスマートフォンで撮影した。


「すいません、園長先生」

「いいのよ、私の方こそ余計なことを言って――」

「そんなことないです。マトには俺の方から訊いてみます――園長先生に聞いたとは言わずに」


 園長先生はうん、とうなずいた。真意の読み取りにくい反応だった。たぶん、園長先生自身、どうすればよかったのか判断がつきかねているのだろう。


「それにしても、鴻上さんもマトの学生姿を見たいから講師になるなんて……」


 俺は少しだけ話題をずらした。それを聞いた園長先生は、なぜか慈しむような目で自分の手をさすった。


「コーちゃんも悩んだんでしょうね。これでマトちゃんの学生生活を終わらせてしまうんですから」


 そうか――そうなんだ。


 俺はマトが今、選ぼうとしている道のことを初めて実感できたような気がした。マトはもう、学生ではなくなって、社会人になる――それはアメリカよりもずっと距離があることのような気がした。


    *


 園長先生に失礼を詫び、あしたば園を後にした俺は再訪荘の前でスマートフォンをいじっていた。先ほど撮影した写真を拡大して見ると、それはやはり雇用契約書のようだった。前半は英語で、後半が日本語になっている。日本語の先頭には、これは本来の契約書の参考訳であり、内容に齟齬があった場合には原文が優先される、と書かれている。

 契約書は皆そうなのか、それとも直訳だからなのかわからないが、どうにも意図が掴みづらい。四苦八苦してようやく分かったことはゼロリウムはマトに契約金として一千万ドル支払う、もし、契約を破棄する場合は契約金全額を返金する、契約金は仮想通貨で支払う、ということだった。最後に連帯保証人として園長先生の名前と捺印があった。


 ――一千万ドル?


 日本円にして十億以上だ。契約金とは別に年俸もある。

 マトにそれほどの価値があるというのか。いくら鴻上がマトの幼なじみだと言っても、身内びいきだけでこれほどの額を動かすことはできないだろう。だとしたら、これはマトのバグバウンティハンターとしての価値ということになる。


 あいつ、バグバウンティハンターとしてどれくらい稼いでたんだ? 「コロモガワ・マト」で検索してみるとすぐに記事が見つかった。その記事は各社から公表されている賞金を合計すると、コロモガワ・マトは年間六百万くらい脆弱性発見で稼いだことになる、と伝えていた。年収六百万というのはどうなんだろうか。もちろん、俺たちにとってはすごい額だけれど、社会人としてその額が多いのか少ないのか、今一つピンと来ない。

 それでも、十億円の契約金が桁外れだということは俺の目にも明らかだった。それだけの契約金をポン、と出すことのできるゼロリウムという企業はいったい何者なんだろうか。


 ゼロリウムで検索すると簡単に企業情報ページがヒットした。トップページには深紫色で「We are Zerorium. We pay BIG bounties, not bug bounties」と書かれている。


 ――我々はゼロリウムです。我々はバグ代バグダイではなく、莫大バクダイな報奨金を支払います。


 やはりバグバウンティハンターとしての腕を買われたということか。同じ賞金をくれるなら、たくさん出してくれるところに行くのは自然なことだろう。


 いや、ちょっと待てよ?

 俺はマトの言葉を思い出す。


 ――報奨金制度のある会社だと、そこの製品とかサービスの脆弱性を見つけて報告するとお金がもらえるの。


 そうだ、報奨金はその製品やサービスを提供している会社が出すんだ。だから、どっちの賞金が高い、とかそういうことはありえないはずだ。


 ゼロリウムのサイトの「Read More」ボタンをタップすると、英文ばかりがつらつらと表示された。スクロールさせていくと周期表のような賞金額テーブルが現れた。もっとも高額な賞金が設定されているのは「iPhoneを遠隔操作で脱獄させる(ユーザ操作なし)」の150万ドルだった。


 iPhoneの脆弱性ならアップルが報奨金を出すはずだ。ということは、ゼロリウムはバグバウンティハンターから脆弱性の報告を受けて報奨金を支払い、その一方でアップルなどのベンダにその脆弱性を報告してより多くの報奨金を受け取る――そういうビジネスなのだろうか。ベンダに直接報告する以上のメリットがなければ利用する価値はなさそうだけど――。


「祐……?」


 自分の名を呼ぶ声に我に返って振り向く。


 そこには頭に乗せたストローハットを押さえ、ぱっちりとした瞳で驚いたような表情を浮かべた美少女がいた。品のいいワンピースチュニックからアンクル丈のスキニージーンズが伸びている。


 眼鏡をかけていない、俺の知らないマトだった。

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