その6 少年「と/は」バカ
窓を叩く雨は液体とは思えない破裂音を立て、体当たりをしてくるかのように風がうなっている。コンピュータ部の部室を飛び出した俺は渡り廊下を抜け、階段を駆け上がった。
だが、台風の暴風雨とは裏腹に、俺の勢いはすぐに失われていった。二階、三階と上がるにつれて速度は落ちていき、屋上に通じる階段の手前ではもう完全に歩みは止まってしまった。
見上げた先は真っ暗で、誰もいないことは明らかだった。
なぜ、確信してたのか――自分の思い込みが滑稽にすら思えた。この階段を上がればきっとマトがいる。そう思い込んでいた。
それでも、もしかしたらという期待を拭い捨てることはできなかった。俺は手すりに手を置いて一歩ずつ、暗闇の中を上っていった。明かりのない階段は目を凝らしてもほとんど見えなかった。スマホを置いてきたことが悔やまれる。
「マト」
声をかけても返事はない。闇雲に手を振り回しても壁や手すり以外に当たるものはない。やっぱり、そこはただの闇でしかなかった。人がいた形跡すらなかった。
俺の、勘違い――か。
俺は真っ暗な階段の踊り場に腰を下ろした。
あの日のマトのアパート。すぐ横のマトの息遣いが、薄い布きれ一枚に遮られた――もしかしたら遮られていなかったかもしれない、マトの、その、なんだ、まあ、あれだ――あれから必死に意識を逸らそうとしてひたすら呪文のように唱えたMACアドレス。意味も分からないのに、アルファベットと数字の羅列はCMで連呼される電話番号のように今でもソラで言える。
ゴーゼロシーナナビーエフエフシー……
そうだ。
コンピュータ部で見たあれは絶対にマトのPCのMACアドレスだった。間違いない。だから、
俺は膝をパン、と叩いて立ち上がると、2-Bの教室に向かった。学級教室はたくさんあるけれど、自分のクラス以外の教室を選ぶ理由はない。自分のクラスにいなければ他の教室にもいないだろう。
かくして2-Bの教室には誰もいなかった。念のために清掃用具入れの中も見てみたけど、もちろんマトはいなかった。
――祐は私のことをどれだけ非常識だと思ってるの?
マトが俺の今の姿を見たらそう言うだろう。俺は自分の想像に思わず笑みをこぼした。台風の夜、教室の清掃用具入れの中に隠れてる女はさすがにいない。
「しゃあない。片っ端から探すか」
些細なことでここまで来てしまった俺にとって、それは大したことじゃない。だけど、学級棟、理科棟、北校舎と回って、結局部室棟まで戻ってきたけれど、どこにも人の気配すらなかった。
もう教室はすべて探した。
外は先ほどよりも風雨が増して、植え込みの高木は根こそぎ持って行かれそうになっている。轟々とうねる風は雄叫びをあげるようにすべてを蹂躙する。人間一人くらい、簡単に吹き飛ばしてしまいそうだ。
――不可能な物をすべて除外してしまえば、あとに残ったものが、たとえいかに不合理に見えても、それこそ真実に違いない。
「だよな」
俺は独り言をつぶやいて、体育館に続く通路への引き戸を開けた。鍵を開けた途端にぱあん、と全開になる。風で引き戸が開くなんて、なんて力だ。あっという間に打ち込む雨で廊下がびしょ濡れになる。もちろん、俺もずぶ濡れだ。
なかなか閉まらない引き戸を諦め、風に飛ばされそうになりながら屋根をつけただけの通路を抜けて体育館に向かう。横殴りの風に屋根は無力だった。ほんの数メートルなのに雨の中を歩いているのと変わらない。
風に足を取られ、走ることもできずに一歩ずつ進む。
一歩、また一歩――。
体育館正面入り口横の土足置き場にたどり着くまで、ずいぶん長い時間がかかった。長いと感じたのは、そこにいることが見えているのになかなか前に進めなかったからかもしれない。
俺は膝に手をついて、息を整えてから顔を上げた。
「なんでこんなとこにいるんだよ」
――一言目は気の利いたことを言うつもりだったのに。
「開いてないの、避難所。困っちゃった」
「ほんっっっっっと、バカだな!」
「バカって言う人がバカなんだよ」
「そうだよ、バカだよ分かってるよ」
「どうしたの、変な顔して」
ほっとけ。ただの泣きたくて腹を立てていて嬉しくて照れくさくて抱きしめたいのを我慢してる顔だ。
「でもよかった、祐も同じとこに避難してきて」
「あのな……」
マトがにっこり笑って、俺は喉まで出かかった文句を飲み込んだ。
誰かのことを好きだ、と自覚するきっかけって、他人から見たらバカみたいなことだったりするんだろうな――俺はそんなことを考えていた。
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