その4 少年とコロッケ

 部屋のエアコンの修理が終わるとともに、夏休みが始まった。


 相変わらず猛暑は続いているものの、次に来たのは「猛烈な台風」だった。猛烈なんて言葉、日常生活ではまず聞くことがない。昔は流行語のように使われていたというけれど、どうにも想像がつかない。

 不謹慎ながら俺は戦後最大とも言われる「超大型で猛烈な台風」にワクワクしていた。最大風速九十メートル、中心気圧八百九十ヘクトパスカルという数字に胸躍らせ、安全なマンションのエアコンの効いた部屋から外を眺めたかったのだ。言ってみれば最前列でパニック映画を見るような気分だったのだ。


 ――それがどうしてこうなった。


 俺は傘もなく、全身ずぶ濡れで次第に強まる雨脚の中を歩いていた。パニック映画を見ていたら映画館が火事になったような気分だ。


    *


 始まりは俺の冗談交じりの軽口だった。

 家で姉と気象ニュースを見ていた俺は、桟橋に打ちつける高波の映像を見ながら「今日はコロッケだな」とつぶやいた。台風と言えばコロッケと決まっている。ソファで寝転んでいた姉が「お、いいねえ」と乗ってきた。


「母さん迎えに行くついでにコロッケ買ってきてよ」

「なんで迎えに行かなきゃいけないんだよ」

「この台風だよ? 心配じゃないの?」

「なら姉さんが行きなよ」

「あんた鬼なの?」


 理不尽すぎる。姉は「じゃあさ」と体を起こして財布から紙幣を取り出した。


「お釣りはあげるから」

「え、まじですか姉様」


 俺はひったくるように姉の手にした樋口一葉様を手に取った。


「あ、ちょっと待って。今、あたしいくら渡した?」

「もういただきましたので。それじゃ姉様、行って参ります」

「ちょっ、待て! こら!」


 姉の怒号から逃れるように俺は速やかに自宅を後にした。お袋が帰ってくるにはまだ時間があるけれど、言い争いになってせっかくの臨時収入を取り上げられては困る。それに今なら雨もそれほど強くない。近くで時間潰して、駅にお袋を迎えに行って、コロッケを買って五千円なら悪くない。悪くないどころかむちゃくちゃ美味しい。

 ポケットの中でスマホが鳴動してるけど無視無視。駅について確認すると、着信の他にLINEが入っていた。もちろん、姉からだ。


『それあげるから、その代わり肉のカトーのコロッケにして』


 たまにお袋がコロッケを買ってくる店だった。俺はお安いご用、と返すと、スマホで「肉のカトー」を検索した。

 てっきりうちの近くの店だと思っていたのに、「肉のカトー」はお袋の職場の近くの店だった。お袋に買ってきて、て伝えとくよ、と返すと、


『あんた鬼なの? この台風の中働いている母さんに、さらに買い物をさせる気?』


と、鬼に後ろ指をさすスタンプが送られてきた。ずいぶんピンポイントなスタンプ持ってんな。

 ここで引き返せばよかったのかもしれない。だが、そのときの俺はまだ、五千円をもらう方が割がいいと思っていた。お袋に「そっちの駅に迎えに行くから」とLINEを送り、混雑する電車に乗った。

 お袋の職場の総合スーパー近くの駅に着いたところで、お袋から「今日は台風の影響で閉店が早まったから、もうすぐ家に着く」とLINEで返信があった。


 なんだよもう。


 これじゃコロッケを買うためだけに電車に乗ってきたみたいじゃないか。別にやることが増えたわけではないけれど、目的が一つ減ったことでなんだか損をしているような気がしてきた。ともかく、コロッケを買ったらさっさと帰ろう。次第に強まる雨の中、俺は「肉のカトー」を目指した。


 考えてみれば、総合スーパーが閉店になるくらいなんだから、個人商店が閉店していてもおかしくなかった。


 俺は「本日台風のため閉店します」と書かれたシャッターの上の張り紙を見て、呆然としていた。何度読み返しても内容は同じだった。

 姉に『なんの成果も!! 得られませんでした!!』という調査兵団のスタンプを送ると、俺は徒労感にさいなまれながら駅へと向かった。

 駅には人があふれ、それ以上の数のタクシー待ち行列ができていた。

 ああ、もうわかるよ。見なくてもわかるよ。電車止まってるんだよね、再開未定なんだよね。

 駅員に食ってかかる会社員を冷ややかに見つつ、俺はタクシーを待つ列に並ぶか並ぶまいか迷っていた。せっかくもらった五千円をタクシー代に使うのはあまりにももったいなさすぎた。だが、これでプラスマイナスゼロ、という考え方もないわけではない。

 そのとき、姉から先ほどのスタンプの返事が来た。


『じゃあそのお金は返してよね』


 俺は振り替え輸送を行っている最寄り駅に向かって、とぼとぼと歩き始めた。

 雨よりも風が強くなってきたのが痛い。安いビニール傘は一瞬の突風でお猪口になり、骨が折れた。どうせすでにびしょ濡れだ。傘がなくてもなにも変わりはしない。俺はコンビニのゴミ箱に傘を捨てると再び歩き始めた。スマホもびしょ濡れで、いくら防水と言ってもこのままだと壊れかねない。俺は電源を落として歩き続けた。


    *


 頭を打つ雨粒が痛い。アスファルトに跳ねる雨が視界を奪い、自分がどこを歩いているのかよく分からなくなっていた。認めたくはないけれど、道を間違えたらしい。もう駅に着いてもいい頃だった。


(あれ、ここは……)


 その道には見覚えがあった。記憶を辿って道を折れると、思った通りマトの住んでいる再訪荘さいほうそうがあった。

 とりあえず、休ませてもらおうと思って近づいたものの、俺ランキング壊れそうな家一位の再訪荘はその地位をさらに確たるものにしつつあった。もうすでに傾いているようにすら見える。


 これは休ませてもらう以前に救出すべきではないだろうか。


 俺は再訪荘の玄関を開けると、「すいませーん」と声をかけた。もちろん、誰も出てくる気配はない。なにも言わずに入ると不法侵入みたいで気が引ける、という理由だけだからどちらでもよかった。むしろ、知らない人が出てこられても困る。

 全身びしょ濡れで上がることにはためらいがあったが、なにか言われたら雑巾でも借りて拭けばいいだろう。俺はギシギシきしる階段を上り、マトの部屋のドアをノックした。

 部屋から反応はなかった。ドアノブは回らなかったが、ドア全体ががたついた。もしマトが部屋にいたらいくつもの蝶番でロックしているはずだから、ここまでがたつくことはないだろう。


 こんな台風の日にどこに行ったんだ?


 思い当たるところは一カ所しかなかった。俺は再訪荘を後にし、俺ランキング壊れそうな家第二位に向かうことにした。行ったからといってどうなるわけでもないけれど、このまま行方が分からないままなのは不安だった。


    *


 あしたば園はまだ無事だった。

 俺が玄関から声をかけると、園長先生は「まあまあどうしたの」と言いながら奥から出てきた。


「すいません先生、マトは来てませんか?」


 俺は挨拶もそこそこに訊ねた。


「あらあら、マトちゃんだったら、一時間くらい前までいたんですけどねえ」

「いた? この雨の中、どこに行ったんでしょうか? その、家にはいなかったので」


 すれ違いだろうか。いや、一時間はちょっと長すぎる。

 嫌な予感がした。

 園長先生は顎に手を当て、思い出すように言う。


「そうそう、あたしもね、この雨だから泊まっていきなさいって言ったんですよ。そしたら『私は避難所に行くから大丈夫』ってぱっと出て行っちゃったのよ」

「避難所……? どこのことでしょうか」


 もう避難勧告が出ているのだろうか。ここ数時間ニュースを見ていないから分からない。


「さあ……まだこのあたりは避難しなさい、なんてお知らせは来てないですからねえ。あたしの聞き間違いか、どこかのことを冗談で言っていたのか……」

「ありがとうございます!」

「まあまあ、お待ちなさいな」


 飛びだそうとする俺に園長先生が声をかける。


「あの子は大丈夫よ。きちんと危ないかどうかの区別は付いている子だから、今頃はちゃんと、安全なところにいるはずよ」

「でも……」

「あなたの方こそこの雨の中出て行くのは危険よ。ニュースでもあと一時間くらいがピークだと言っていたし、少し雨が治まるまでおばあちゃんの話し相手になってくださらないかしら」

「はぁ……」


 俺は園長先生に押しきられる形であしたば園に上がり込むことになった。


    *


「マトちゃんはね、ほんといい子なのよ。でも、全部自分で背負っちゃうところがあるからねえ――ごめんなさいね、大人の男の人の着るものって主人のしかなくって」

「いえ……」


 園長先生は俺の姿を見て、気の毒そうに言った。だるだるに襟元の伸びた白い肌着に、腰に巻いたタオル。さすがにご主人のパンツは丁重に辞退した。


「でも、マト――さんは自立しててすごいですよ」

「あの子はコンピュータ、っていうの? 機械にすごく詳しくてね。それで稼いでるんですって」

「ええ、そう聞いてます。でも、どうしてそんなにコンピュータに詳しくなったんでしょうか」


 俺はマトがあしたば園出身だと聞いてからずっと思っていた疑問をぶつけてみた。失礼だが、このあしたば園にコンピュータがあるとは思えなかった。


「あの子のお兄ちゃん代わりだった子がね、とても詳しかったんです。ゴミ捨て場に捨てられていたパソコン? とかを拾ってきて、それを使って自分で作ったものを持ってきてくれてたり、いろいろ教えたりしてたんですよ。マトちゃんは一回りも違うのに、お兄ちゃんの言うことをちゃんと理解していたみたいでね。よくお兄ちゃんが自慢してたわ。『マトはコンピュータの天才だ』って」


 マトがこのあしたば園にいたのは小学校まで、つまり十二才の頃までということになる。そのときすでに自作PCをいじっていたのなら、詳しいのも当然かもしれない。


「その、お兄ちゃんって方は今は?」

「今はアメリカにいるわ。義理堅い優しい子でね、もう三十くらいになるのに未だに帰国したときには顔を出してくれるのよ」


 そう言うと園長先生は目を細めて微笑んだ。


「ああ、でも心配しないで。マトちゃんはきっと、あなたのことが好きだと思うわ」

「え、ちょ、どうして、あ、いや――はい……」


 その男とマトは今、どういう関係なのかが気になって訊ねた俺の気持ちを察したかのように園長先生が言う。なにか言わなきゃ、と思いながらも、うまく言える自信がなかった。

 沈黙の中、ふと気がつくと、雨の音はだいぶ治まっていた。


「俺、マトを探してきます」

「そう――きっと止めない方がいいのよね」

「……」


 何も答えられない俺を見て、園長先生は「うんうん」とうなずいた。


「脱水しただけだからあまり乾いてはいないけど――あと、傘はダメになっちゃうから主人の雨合羽を着ていってちょうだい」


 園長先生は洗面所に干してあった俺の服と、黒いレインコートを持ってきてくれた。


「ちなみに、このあたりで災害があった場合の避難所ってどこになります?」

「ここだと愛帝学園ですわね。そこの道を出て、まっすぐ左に行けば――ってご存じですよね」


 知ってるもなにも、それは俺たちの高校だった。

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