その3 ワンピースの少女とMACアドレス

 再訪荘さいほうそうは風呂なしトイレ共用の下宿屋だった。

 玄関を上がるとすぐ右手にトイレがあり、その隣には極端に傾斜が急な階段がある。


「こっち」


 階段を上るマトを見上げると腰に巻いたパーカーの裾から紺色の水着のお尻が目に入り、俺は慌てて下を向いた。水着だと分かっていてもドキリとする。

 ギシギシときしる階段を上がると、そこはギシギシときしる廊下だった。左手に二つの部屋があって、右手は窓になっている。窓から見えるのは隣のアパートの壁だけだ。

 マトは手前の部屋のドアノブに鍵を挿した。カチャン、と音がしてドアが開く。


「これ、防犯大丈夫なの?」


 不安になった俺はマトに訊いた。ドアノブの真ん中に鍵穴が付いていて、その反対側がサムターンになっている。よく室内のドアに使われている安っぽいタイプのものだが、玄関が施錠されていないことを考えると実質このドアが外界との境界だ。あまり防犯対策として有効だとは思えなかった。


「大丈夫」


 俺はマトに促されて部屋に入った。振り返るとドアの内側にはいくつもの蝶番が付けられていて、マトはそれを一つ一つロックしているところだった。


「自分がいないときに入られることは問題ないわ。問題は自分がいるときに押し入られることだから」

「なんで空き巣が問題ないんだよ」

「買い直せばいいでしょ。空き巣が入る確率とそれによる想定被害をかけた額が、家賃の上昇分よりも小さければ対策する必要はないわ」

「リスク管理マネジメントか」

「そ」


 俺は改めて部屋を眺めた。よく考えたら同級生の女の子の部屋に入るなんて初めての体験だったけど、これはそれにカウントしてはいけないような気がする。

 マトの部屋は四畳半の畳敷きで、中央に丸いちゃぶ台があり、その上には裸電球が一つぶら下がっている。よく見るとLED電球というところがマトっぽい。ソケットはそのままで電球だけ取り替えたのだろう。

 押し入れの前には三つ折りの布団があって、その上にノースリーブのワンピースが一着。壁には制服が掛けられていた。その反対側には小さな冷蔵庫がある。


「PCとかたくさんあるのかと思ったけど、そうじゃないんだな」

「そのうちきちんと一人暮らしできるようになったらね。これ、ありがと」


 そう言いながらマトはパーカーの袖を解いて俺に渡すと、ワンピースを頭からかぶった。


「ああ……って、なにやってんの!」

「なにって?」


 マトはワンピースの脇から水着の肩紐を出すと、そこから腕を抜いた。


「なんで男がいるのに脱ぐんだよ!」


 俺は慌てて後ろを向いた。


「大丈夫よ、ちゃんと先にワンピース着てるから」

「そ、そういう問題じゃなくってだな」

「変なの」


 ふと窓を見るとガラスにワンピースの裾から水着を抜き取ろうとしているマトの姿が写っていた。確かになにも見えてないけれど、そういう問題じゃない。裏返った水着の裏地が妙に生々しい。


「麦茶でいいかな」

「あ、はい」


 喉の鳴る音を返事で誤魔化して振り返った。マトは四つん這いになって冷蔵庫に手を伸ばしていた。すらりとした――細すぎる脚がワンピースから伸びている。


「あの……マトさん?」

「マト」

「あー、あの、マト?」

「なに、祐?」

「……いやなんでもない……です」


 俺は自分の言葉を唾と一緒に飲み込む。


(はいてませんよねはいてませんよねはいてませんよねはいてませんよね……)


    *


 なんだか流れでここまで来てしまったけれど、マトとの共通の話題なんてそんなにあるわけじゃない。かといって麦茶をいただいている以上、さっさと引き上げるのも気が引ける。俺はちゃぶ台の上の麦茶をちびちび飲みながら話題を探していた。


「そ、そういえばマトってバグバウンティハンターなんだってな」


 俺は細田が言っていたことを思い出して言った。


「よく知ってるわね。調べたの?」

「ああ、いや、そういうわけじゃなくって。コンピュータ部のヤツがそう言ってたんだよ。ちょっとセキュリティをかじった人間ならコロモガワ・マトを知らないヤツはいないって。もっとも、そいつはそれが自分の先輩だとは知らなかったみたいだけど」


 そう言うとマトは「無理ないわ。おそらく日本人と思われる、とか言われてたくらいだから」と笑った。


「バグバウンティハンターってどんなことするんだ?」

「バグというより、脆弱性を見つける賞金稼ぎバウンティハンターのことよ。報奨金制度のある会社だと、そこの製品とかサービスの脆弱性を見つけて報告するとお金がもらえるの。会社によってはその報告者名や獲得賞金額を公表してるから、それで知ってる人は知ってるんだと思う」

「へえ。でもそんなのって、あら探しというか、クレームみたいなもんだろ? どうしてそれに会社がお金を出してくれるの?」

「私が見つけなくても誰かが見つけるわ。会社は、悪い人が見つけて悪用する前に見つけてもらいたがってる」

「でも、そもそもそんな脆弱性が残ったままの製品を出しちゃダメだろ。それって、企業が無責任なんじゃないの?」


 俺がそう言うと、マトは「へえ」と感心したように言った。


「そんな考え方ってなんか新鮮」

「そうか? ちょっと考えれば分かる話だと思うけど」


 俺はちょっと得意になって言った。


「ううん、そうじゃなくって、いろんな考え方があるんだなあって」

「――ちなみにマトはどんな考えなの?」


 マトは俺の考え方に感心しているわけではなさそうだった。どうにもばつが悪い。


「脆弱性がない事を証明することはできないから、むしろ脆弱性は絶対にある、と考えるべきよ。でも、それをなくすために努力し続けることが企業の責任だと思うわ。そういう意味だと、報奨金制度を設けて脆弱性の発見を促す企業の方がより責任を果たしていると言えるんじゃないかしら」

「じゃあ、マトはクレーマーじゃなくて、その会社に協力している正義のハッカー、ということになるのか」

「私はプロのバグバウンティハンターだというだけ。別に正義感でやっているわけじゃないわ」

「だから、マルウェア as a Serviceなんてこともやってるのか?」


 マトはことり、と麦茶の入ったグラスを置いた。一瞬温度が下がったような気がした。


「マルウェア as a Serviceという言葉は私がつけたわけじゃないわ。私がやっていたのは遠隔操作・監視用ツールのサービスだし、ちゃんと事前に『端末利用者に許可なくインストールしないこと』って利用規約を示してる。それを守らないのは利用者の責任だわ」


 詭弁だと思った。でも、俺にはそれを論破する自信はなかった。

 おそらく実の親からは虐待を受け、里親からは搾取され続ける――そのためにマトは自立して自分で金を稼がなければならなかったのだ。親の庇護の元、のうのうと暮らしている自分が青臭い正義感を振りかざしたところで、それは安全なところから口を出すだけの無責任な行動だとしか思えなかった。

 でも、それでも――マトが犯罪に関わることは嫌だった。


「もうしてないわ」


 黙り込んだ俺にマトが投げかけた言葉は意外だった。びっくりして顔を上げた俺と目が合って、マトはなぜか焦ったように眼鏡を上げながら視線を逸らした。


「べ、別に祐のためにやめたんじゃないんだからね」


 テンプレかよ。しん、とした俺たちの間に蝉の鳴き声がひときわ大きく響く。


「ストレッサーの運営も逮捕者が出たし、法改正次第では犯罪になる、と思ったからよ」

「ストレッサー?」


 言い訳のように取り繕うマトに訊ねる。


「ウェブサイトに集中的にアクセスしてダウンさせるサービス。あくまで負荷試験というていをとっているから、絶対に自分が運用しているウェブサイト以外には行わないこと、という注意書きがあったのよ」


 マトのいう遠隔操作・監視用ツールの文言と同じだ。そのことが、マトが自分のやっていることが犯罪を助長していると認識していたことを物語っている。


「おかげで収入源が一つ減ったわ。これからはもっと脆弱性バグを見つけないと。こないだ見つけたのは仕様だって言われて賞金出なかったし」


 照れ隠しなのか、マトは少し拗ねたように言う。


「それってどんなの?」

「無線ルータの脆弱性。いったん認証された機器のMACアドレスを変更することで、理論上はWPA3であっても本来の機器のセッションを横取りできるってやつ。他社の製品だと成功しないのに」


 予想はしていたけれどなにを言ってるかさっぱり分からない。


「それ、Windowsではおきないの?」

「なんで?」

「いやほら、MACがどうたらって」

「ああ、MACアドレスのこと? これはマッキントッシュとは関係ないわ」


 マトはノートPCを取り出してちゃぶ台に乗せると、俺に身を寄せるように隣に座った。ノースリーブのワンピースから出た肩が触れ、胸元が開く。


「ほら、これ」

「は、はい!」


 マトがノートPCのモニタを指でさし、俺はものすごい集中力でその先を見た。

 だって、俺の記憶が間違ってなければ――


(つけてませんよねつけてませんよねつけてませんよねつけてませんよね)


「この六オクテット、四十八ビットの数値がMACアドレス。原則、ネットワーク機器ごとに固有なんだけど、実際には自称してるだけだから変更することもできる。だから、MACアドレスフィルタリングなんて気休め程度よね」

「50-C7-BF-FC……、50-C7-BF-FC……、50-C7-BF-FC……」

「MACアドレス覚えてもしょうがないと思うけど……」


 画面から目をそらさず呪文のように唱える俺に、マトは呆れたように言った。

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