その2 少女とビジネス

 奥まった路地の突き当たりに子どもたちの住む施設があった。


 施設とは言っても、表札に「あしたば園」と書かれていなければちょっと大きい住宅にしか見えない。建屋はかなり年期の入った様子で、ところどころ素人仕事と思われる修繕の跡が見える。こう言っては失礼だとは思うけれど、今までに自分が見た中では「今にも崩れそうな家」部門のぶっちぎり第一位だ。

 庭は広いものの、いかにも建売といった感じの三階建て住宅が左右から迫っていて、昼間でも薄暗い。以前は家庭菜園でもやっていたのかもしれないが、この日当たりでは大した収穫は期待できないだろう。今は荒れた空き地然としている。


「ただいまー!」


 玄関の引き戸を開けると、子どもたちは我先に靴を脱ぎ捨てていく。


「せんせー、マトねーちゃんがおとこ連れてきた-」

「おやおや、ちょっと待っててくださいねぇ」


 奥からのんびりとした声が聞こえてくる。

 ボキャブラリの少ない子どもゆえのことだろうけれど、おとこって……。苦笑いしながら隣のマトを見ると、脱ぎ散らかされた靴を並べているところだった。


「はいはい、すいませんねえ」


 廊下の暖簾をくぐって姿を現したのは痩せた老女だった。八十は過ぎているだろうか。ライトグレーの髪をひっつめにしていて、目尻には人の良さを物語る笑い皺が深く刻まれている。

 老女は俺の顔を見ると、軽く頭を下げながらにっこり笑った。


「あらあら、ずいぶんとお若いんですねえ」

「どうも、初めまして」


 そんなに幼く見えるかな? マトの同級生と言って違和感があるほど、童顔でも老け顔でもないつもりなんだが。

 突然の来訪者にも動じず、ニコニコと笑顔を絶やさない老女はなぜか右手に印鑑を持っていた。


「まあまあ暑い中ご苦労様です、ほんとにねぇ」

「いや、その……」

「先生、祐は配達の人じゃないよ。私の同級生」


 マトは腰を上げながら老女に語りかける。


「あらあら、ごめんなさい、間違えちゃった」


 老女は舌を出してひょい、と肩をすくめた。可愛いおばあちゃん、てのはこういう人を言うんだろうな、と見ていると、靴を並べ終えたマトがすくっと立ち上がった。


「じゃあ、また来るね」

「あらあら、もう帰るの?」

「うん」


 あっさりと老女に背を向けるマト。老女ははぁ、とため息をつくと柔和な笑みを浮かべてゆっくりと諭すように言った。


「マトちゃん、あなたが来てくれるとみんな喜ぶし、私も助かるのだけれど、自分のことを優先していいのよ」

「わかってる。またね」


 言われ慣れているのだろう。マトは手を振ってあしたば園を後にした。俺も頭を下げて後を追う。

 路地を出て、通りに出ると再び太陽がじりじりと照りつけてきた。あしたば園にはエアコンがないと言っていた。それでもなんとかなっているのは日当たりの悪さゆえだろう。俺はとたんに吹き出してきた汗を拭きつつ、マトに話しかけた。


「今の人が園長先生なの?」

「一応はね。ほんとは先生のご主人が園長先生なんだけど、体調崩して入院してるの」

「それで手伝いを?」


 マトはん、とうなずくと束ねた長い髪を解き、もう一度高い位置でまとめなおした。プールで濡れた髪はすっかり乾いていた。


「偉いねえ」

「先生を少し休ませてあげるくらいにしかなんないけど」

「それで十分でしょ」


 俺の言葉にマトは首を振った。


「人手が足りないから、このままだと認可を取り消されそうなの。今はパートタイムで臨時の先生に入ってもらってしのいでいるけど」

「そ、そうか……」

「子どもを劣悪な環境に置かないようにするための規則なんだろうけど、そのために子どもが労働を強要されている、となると虐待と見なされかねないわ。実際、そんな施設があるからだけど、そのおかげで他のまっとうなところまで迷惑する」


 なんだか自分の浅い考えが恥ずかしくなった。人の気持ちだとか、負担だとか、そういうところまでは頭が回っても、その先の社会のことはなかなか考えられない。


「あの園長先生はいい人そうだな」

「うん。できればずっとあそこにいたかったけど」


 マトは少し寂しげに答えた。中学のときは里親のところにいて、高校になってから一人暮らしをしている、と言っていたことを思い出した。


「中学になったときに施設を出たの?」

「うん。今の国の方針だと、施設は里親が見つかるまでの一時的なものという扱いだから」


 それはなんとなくわかるような気がした。血がつながらないとはいえ、家庭の中で親子として生活できるのならそちらの方がいい。わざわざ里親を申し出るのだから、子ども好きな優しい人たちのはずだ。

 でも、だとしたらどうしてマトは高校で家を出たのだろうか。

 誰にも頼りたくない、他人になにかをしてもらうなら対価を支払う、という性格だから、里親に対して迷惑はかけられないと思ったのかもしれない。


「里親の方がいいなんて、そんなこと言えないのに」


 マトのぽつりと漏らした言葉に俺はぎょっとした。


「私のいたところには、私と同じような子が他にも二人いたわ。それに実の子も一人。いつも里親の夫婦からは『苦しい生活の中からやりくりして、働きもしないお前たちに飯を食わせて学校に行かせてる。ゲームや本だって与えて贅沢させてやってる』と言われ続けて、その頃はほんとに感謝してたわ」


 俺はどう捉えればいいのかわからなかった。その里親が言っていることは押しつけがましい気はするけれど、合わせて四人も子どもがいたら相当家計は苦しいだろう。それにゲームや本も買ってあげるなら、そんなに普通の家庭とも変わらないように思える。

 俺が黙って考えていると、マトはふっと笑みを見せた。


「あの夫婦は私たちのことを働きもしない、と言っていたけれど、私たちは養育費、里親手当とかで月に五十万くらいの収入を彼らにもたらしていたのよ。医療費やら学費、そのほか学校行事にかかる費用だってすべて国から出るし。後から知ったことだけど、彼らにとって里親はビジネスなのよ」

「ビジネス……」


 そんなこと思いもしなかった。自分の思い描いた、心優しい里親像がガラガラと崩れていく。振り返るとそれは酷く稚拙で、まるで世間を知らない幼児が描いたもののようだった。


「じゃあ、マトが家を出ることには相当反対されたんじゃ……」

「私はまだ家を出てないことになってるわ。養育費や手当はすべて好きに使ってもらってかまわないし、自分の生活費は自分で出すから、ということを条件に、学校に通うための一人暮らしを認めてもらったの」

「そういうことか……。そいつらにしてみれば家にいないのに勝手にお金が入ってくる、願ったり叶ったりのいい話ってわけだ」

「どうやって生活費を稼ぐのか、とかなり追求されたけどね」


 ビジネスとは言え、やはり子どもの一人暮らしは心配だったのだろう。それとも、生活が立ちゆかなくなったときの自分たちの負担を警戒したのだろうか。俺の中の里親像はまだぼんやりしていた。


「そんなに呑気な人たちじゃないわ」


 俺の言葉にマトは淡々とした様子で答えた。


「『実の親から金を引っ張ってるんじゃないのか、だったらそれをよこせ』ってことよ」


 「子供が大人の食い物にならないために、私たちは武器を持たなきゃいけない」――いつか、マトが言っていた言葉が思い返される。あの言葉は、今も続いているマトの経験によるものだったのだ。


「着いたわ」


 マトの声に顔を上げると、そこには廃屋と見間違えるかのような家があり、「再訪荘さいほうそう」と書かれた手書きの表札が掛かっていた。

 あしたば園は「今にも崩れそうな家」一位の座からあっさりと陥落した。

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