第二話 夏の嵐

その1 水着の少女とリスク管理

「あぢぃ……」


 俺は照りつける太陽を見上げた。

 あったんだかなかったんだか分からないような梅雨が明けて七月に入ると、記録的な猛暑がやってきた。連日のように最高気温が更新され、ニュースは毎朝「命に関わる危険あり」と熱中症を警告する。震度五の地震よりも暑さで死ぬ人の方が多いなんて、狂ってる。

 そんなときに限って俺の部屋のエアコンが故障、ときたもんだ。最近どうも効きが悪いな、と思っていたら、今朝からは熱風しか出てこなくなった。家電店には「この猛暑で立て込んでまして」と、修理には二週間かかると言われ、呆然とする俺に「まああんたの部屋でよかったわ」と血も涙もない言葉を残してお袋は出勤していった。普段なら日曜なのにご苦労さま、と思うところだが、そのときの俺は「職場はお涼しいのでしょう?」としか思わなかった。ちなみにお袋の職場は総合スーパーのサービスカウンターだ。


 それでリビングで涼んでいたのだけれど、今度は「これから友達来るんだから」と姉に追い出され、図書館に涼みにきたらすべての席が埋まってる。エアコンあるヤツは家に帰れよ、とぼやきながら来た道をとぼとぼと歩いているのが今の俺だ。


 くそう、来たときよりも暑いじゃないか。


 俺は冷房が効きすぎているときのために、と思って持ってきた薄手のパーカーを取り出し、帽子代わりにフードを頭に引っかけた。

 いったい何のために出てきたんだか。図書館がダメだとしたら、とりあえずコーヒー店にでも入るか。この辺にあったっけ、と思いつつ歩いていると蝉時雨の中、子供たちの歓声が聞こえてきた。

 声の方を見ると、そこは公園に併設された無料の区民プールだった。幼児から小学生低学年くらい向けだろうか、生け垣とかの目隠しもほとんどなく、公園からよく見える。


 くぅ、子どもはいいよな。水遊びにも金がかからないし。


「じゃあ、今度は姉ちゃんが鬼よ!」


 そう思いながらぼけっとプールではしゃぐ子どもたちを眺めていたら、ふと聞き覚えのある声が聞こえてきた。いやいや、さすがにこんな子ども用プールにはいないだろ。俺、ちょっと意識しすぎじゃないか? それともこの暑さのせいで頭がぼーっとしてるのか。


 プールに背を向けた俺に、子どもの声が響いた。


「わ、ずるい! マトねえちゃんタンマ!」

「だめーっ」


 え?


「捕まえた!」

「やだやだ! きゃはははっ」


 俺が驚いて振り返ると、そこには子どもを羽交い締めにした水着姿のマトがいた。


    *


 よく事情が飲み込めない。


 俺はマトと並んで公園のベンチに座っている。大きく枝を伸ばした木のこかげは意外に涼しかったが、四方八方から蝉の声が聞こえてくる。

 視線の先には棒アイスを手に遊んでいる水着の子どもたち。

 もちろん、なんで高校生のマトが、こんな小さな子たちを四人も引き連れて子ども用プールで遊んでるんだ? ということもあるんだけど、それよりこの状況はなんだ。


「あのー、マトさん?」

「マト」

「あ、えと――マト?」

「なに、祐?」

「この状況はなんなんでしょうかね」

「状況って、なにが?」

「その、なんでマトさんは着替えてないんでしょうか」

「マト」


 マトは俺の隣で水着のまま、棒アイスをくわえている。公園の中とは言え、プールサイド以外で水着姿はさすがに変だ。なんだかいつもの八割増しくらいでどきどきする。

 たしかにマトが美少女――というか、ものすごく整った顔をしていることは認めよう。試験問題漏洩の件でごたごたしている最中だったとはいえ、「目つきの悪い女が眼鏡をかけたら美少女だった件」はクラスの連中にもそれなりの衝撃をもたらした。

 でも、結果的にはそれで大きく何かが変わることはなかった。マトは相変わらず孤立――孤高の存在だったし、怖がられることはなくなっても、それで積極的に迎え入れられたかといえばそういうわけでもない。話しかけてくるようになったのは理乃くらいのものだ。

 だから、俺がどきどきしている理由はマトが美少女だから、ではない――だろう。平坦で起伏の乏しいボディラインが理由でもない――はずだ。すらりとした手足だって、細すぎて色気とは程遠い――と思う。


「着替えがないから」

「へ」


 唐突なマトの言葉に現実に引き戻された俺は、自分がマトの脚を凝視していたことに気づいて慌てて目を逸らす。マトはシャクッと音を立ててアイスをかじりながら、俺を見つめていた。俺の視線にも頓着することなく。

 むしろ、嫌らしい目で見ないで、とか言ってくれた方が救われるんだが……。

 というか、今なんて言った?


「だから、着替え持ってきてないの」

「なんでだよ」

「なんでって、このまま家から来たから」

「水着で家から来たのかよ!」

「みんなそうよ?」

「子どもと一緒にすんな!」


 いや、田舎じゃあるまいし、普通子どもだって水着のまま家から来たりはしないだろ。ふと、嫌な予感がして訊ねた。


「まさか、電車で来たんじゃないよな?」

「祐はあたしのことをどれだけ非常識だと思ってるの?」

「さすがにそうだよな、はは……」

「濡れた水着のままで電車に乗るなんて非常識でしょ」


 そっちか――。

 俺は頭を抱えた。


    *


「なんでこんなことしなきゃいけないの?」

「いいから」


 ぶつくさ言いながらも、マトは俺のパーカーを腰に巻いた。上の方はまあ、ぴっちりしたタンクトップだと思えなくもない。


「そんなに無防備だと犯罪に巻き込まれるぞ。もっとリスクを考えて行動しなよ」

「むしろ、リスクを考えた行動だと思うけど?」

「そんな格好のどこがだよ」

「荷物がないから金目のものは持っていないことが分かるでしょ」

「そういう犯罪じゃなくてだな……」

「じゃあなに?」


 言いにくいことを言わせるヤツだ。


「つまりその……性犯罪、とか? ほら、梅屋みたいなヤツもいるんだし」


 俺がそう言うとマトは心底おかしそうにあははは、と笑った。


「ちゃんとリスク管理マネジメントしてるから大丈夫」

「してねぇだろ。ノーガードじゃねえか」


 マトはわかってないなあ、と人差し指を振りながら言う。


「なんでもかんでも対策することがリスク管理じゃないわ。リスクが生じる可能性・確率、そしてそのリスクが生じた際の被害の大きさ、リスク対策にかかるコスト、それをすべて勘案してどうするかを決めるのがリスク管理よ。だから、ほぼ起こりえないことに対して多大なコストがかかるのであれば、対策を行わないノーガードという決定もおかしくない」

「だから起こり得るって言ってんだよ!」


 マトはないない、と笑いながら手のひらをひらひらさせる。


「逆に訊きたいんだけど、パーカーを腰に巻くことがなんの対策になるの?」

「そ、そりゃ――」


 街中まちなかを水着で歩く女がいたら、それを見てむらむらするヤツがいたり、緩い女だと思ってひっかけてくるヤツがいるかもしれないだろうが。

 でも、それよりも、そんなヤツらにマトの肌を見られるのが――。


「嫌なんだよ、俺が」


 顔が熱い。きっと俺の顔は赤くなっているだろう。ついぶっきらぼうな言い方になってしまう。


「あーそっか。ごめんなさい」


 顔を背ける俺をしばらく不思議そうに見ていたマトが、思いついたように言う。普段どおりの口調なのがむかっとくる。こっちはあんなに恥ずかしい思いを我慢して言ったのに。


「そうだよね、見苦しいよね。それは考えなかったなあ」


 そうじゃねえよ、バカ。

 けれど、俺はそれを口に出すことはできなかった。

 バカと言わなかった俺もバカなんだろう。なんだか以前と真逆のことを言っているような気がするけれど。


「ねえ、マトねえちゃん。そろそろ帰ろうよ」

「そうね」


 駆け寄ってきた子どもたちに、マトは腰をかがめて答える。


「えっと、どうしようかこれ。今度返せばいい?」


 マトは腰に巻いたパーカーの袖を持ち上げた。


「歩いてきたんだったら、そんなにここから遠くないんだろ? 俺も行くよ」


 俺はベンチから腰を上げながら言った。この格好のマトを一人残していくのは不安――いや不快だった。


    *


「あの子たちは親戚の子?」


 ふざけながら歩く子どもたちを見ながら、マトに訊く。一番小さな子は幼稚園くらいだろう。あとの三人は小学一、二年生と言ったところか。


「ううん、施設の子たち。エアコンないからねえ」

「施設って――」

「事情はいろいろ」


 その言葉は詮索を拒否する響きがあった。でも、ここで話をやめるのはダメだと思った。触れたくないことを聞いた途端に、逃げだしたように思われたくなかったからだ。

 でも、大抵そういうときは失敗するものだ。言わなきゃよかった、ということを言ってしまって、そして後から後悔する。


「マトはボランティアかなにかで付き添ってるの?」

「ううん、私もそこで育ったから」


 言葉が出なかった。

 そのことがどれくらい本人に受け入れられることなのか、どれくらい触れられたくないことなのか、まったく想像ができなかった。見て見ぬふり、知らないふりをするのが正しいのか、それとも、普通のこととして、「お父さんどんな仕事しているの」くらいのノリで聞くことが正しいのか。

 もちろん、事情にもよるだろう。マトはどういった事情なんだろうか。

 そのとき、ふと、清掃用具入れの中に隠れていたマトを見つけたときのことを思い出した。

 俺が手を振り上げたとき、異常に怯えたマトの姿。

 まさか――虐待の経験とか――?


「中学のときは里親のところに行ってたんだけど、今は一人暮らししてるんだ」


 黙り込んでしまった俺にマトが軽く言う。一人暮らしというのも初耳だったけど、この話題なら地雷は踏まないで済みそうだ。俺はほっとして訊いた。


「高校生で一人暮らしじゃ大変でしょ」

「全然。できればもっと早くしたかったくらい」


 明るく答えるマトの雰囲気に流され、軽口を叩きそうになってはっとした。

 一人暮らしが大変じゃないわけがない――里親の家での生活がもっとひどかったのだ。

 つくづく自分の考えの甘さが嫌になる。


「悪ぃ……」

「どうして?」


 マトはきょとんとしていたが、ふと思いついたように言った。


「あー、祐はいろんなことに気づくもんね」

「合ってるかどうかわかんないけど……」


 そっか、とマトは空を見上げる。公園ではあれほどうるさかった蝉の声はすっかり聞こえなくなっていた。

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