その2 眼鏡をかけたら美少女でした
授業をサボって誰もいない教室に、ウイルス? 入りのUSBメモリ(細田はペイロードにウイルスを乗せることはできますがこいつ自体はウイルスではないです、なぜなら、と延々しゃべり始めたからきっとウイルスではないのだろうけど、それなら何なのかまでは聞いていない)を握りしめて隠れていたマト。なにをしようとしていたのかは分からないけれど、どう考えても
嫌がらせ? それとも誰かの秘密を握ろうとしているとか。どちらにしても、
でも、マトがいじめられていた、という話は聞かない。むしろ、みんなマトを恐れて触れないように遠巻きにしている感じだ。いや、マトがそのことを仲間はずれにされている、と感じていた可能性はあるかもしれない。
でも、それは自業自得、逆恨みだ。あんな凶悪な目つきで睨まれたら誰だってそうなる。
そう思った直後に、それが「いじめられる側にも問題がある」という言葉であることに気がついた。
思えば小さい頃から戦隊ものが苦手だった。
苦手、というか、しっくり来ない、というか、「あれ? それでいいの?」というような違和感だ。一人の怪人に五人がかりで戦うのは卑怯じゃないのか。ヒーローがそれでいいのか。
気がつけばいつも、数に蹂躙され、たった一人で戦う怪人を応援していた。もちろん、その怪人が卑劣なことをして、倒すべき相手であることは分かっている。でも、それでも裁くのではなく、戦うのならば一対一であるべきだ。
小さい頃の俺はそう思っていた。
今の俺は、
マトが指定した場所は校舎の屋上に通じる階段の踊り場だった。
俺が時刻どおりに階段を上がっていくと、すでにマトは来ていた。
同じクラスと言えど、話をしたのは今日が初めてだ。セーラー服姿のマトはある意味新鮮だった。と言っても、なにか甘酸っぱいドキドキ感のようなものではないところが残念なところだ。
スカート丈はちょうど膝下くらいで、やぼったいことこの上ない。そもそもセーラー服自体が大きい。成長を見越して大きめのサイズを買ったのだろうけれど、残念ながらマトの成長はその予想には応えられなかったようだ。
だから妙に胸元が空いていて、綺麗な鎖骨が覗いている。俺の位置からはその下の白い下着らしきものも見えそうなのだけれど、マトはそんな俺の視線に頓着することなく茶封筒を差し出した。
封筒の中には五千円札が一枚入っていた。
なんだそりゃ。
俺はため息をつきながらマトに訊く。
「なぜ清掃用具入れの中に隠れていたのか、理由を話すってことだったよね?」
「はい」
「で、これは何なの? 口止め料?」
「違います」
マトは即答して一枚の紙を差し出した。
「それは契約料。こちらが契約書になります」
タイトルには「秘密保持契約」とある。
「なになに? 本秘密保持契約カッコ以下本契約カッコ閉じは鷹野祐カッコ以下甲……え、なにこれ?」
「だから、秘密保持契約書。NDA。知り得た情報を取り決めた目的以外のことに使用しないことを約束するための契約書です」
要するに口止め料、ということらしい。
「じゃあ、俺が他言しなければ俺の質問には答えるってことでいいんだよな?」
「契約締結後であれば」
俺はマトからボールペンを借りると契約書にサインをした。マトはサインを確認すると、大事そうに畳んでポケットに入れた。
「本来なら同じ内容のものを互いに一部ずつ持っておくべきですが、ご容赦ください」
「あ、うん」
「それで、なぜ清掃用具入れの中に隠れていたか、ですよね」
俺は頷いた。
「そこ以外に隠れるところが見つからなかったからです。棚には扉がありませんし、教卓の下に隠れるには距離がありすぎました」
「そういうことを訊いてるんじゃねえ」
マトは無表情なのか、クールなのか、俺の方を例の目つきで睨み付けたまま首を傾げる。俺はなんとなくマトに主導権を握られているような気がして落ち着かない。
だが、こちらにはとっておきの爆弾がある。俺はポケットの中のUSBメモリの感触を確かめて言った。
「このUSBメモリのチップ、2307だよな」
俺の言葉にマトが驚愕して目を大きく見開く。
「なぜそれを……」
細田が言っていたチップの名前はよく覚えられなかったから、数字のところだけ言ってみたけれど、どうやら通じたらしい。もしかしたら数字だけを言う方が通っぽいのかもしれない。
「わざわざ2307ってことはつまり、そういうことだろ?」
なにがそういうことなのかは分かってないけどな。調子出てきたぞ。
「なにをしようとしてたんだ?」
「分かりません」
「何だよそれ。なんで分かんないんだよ。何かをするつもりでそれを持ってたんだろ?」
マトはぶんぶん、と首を横に振る。
「これを使って何かをしようとしていたのは私ではありません。私はこれを回収しようとしてたんです」
「回収……? じゃあつまり、誰かがこれを使って何かをしようとしていたのを、衣川さんが阻止した、ということ?」
「阻止できたかどうかは分かりません。ただ、これ以上何かをされないように回収したんです」
マトは苦々しく口もとを歪めた。
「じゃあ、これは誰から回収したの?」
「それは言えません」
「さっき秘密保持だっけ? 契約したじゃん」
「条項六の例外事項、二に該当します。事前に別の契約書で秘密保持を結んでいる場合は情報の開示を拒否することができる、というものです」
めんどくさい。
俺は「こいつも細田とだったらうまく会話できるんだろうなあ」とうんざりした頭で考えていた。
「ともかく、約束は守りました。次はあなたが約束を守る番です」
そう言ってマトは右手の手のひらを向ける。俺はポケットからUSBメモリを取り出し、思案する。
このまま渡していいのか?
マトの言葉をそのまま信じれば、これで悪事を働こうとしているわけではない。だが、ほんとに信じられるのか、こいつが。それにいじめの復讐だという可能性だって消えたわけじゃない。
もちろんマトだって同じクラスメイトだから、信じたい気持ちはある。でも、違法な「武器」を渡すことは単に「信じたい」という気持ちだけでできることじゃない。ここで俺が渡さなければ、間違いなくマトは犯罪者にはならないし、被害者も生まない。俺が渡せばマトは犯罪者になるかもしれないし、被害者も出るかも知れないが、そうなるとは限らない。
マトを信じてリスクを受け入れるか、それともマトを信じずにリスクを回避するか。
悩んだ挙句、俺は結論を出した。
「ごめん……やっぱコレ、渡せないよ」
「!? なんですかそれ」
俺はがばっと頭を下げた。
「契約違反だってことは分かってる。でも、これは渡せない。ヤバいモノなんだろ、これ」
「……契約違反なんですけど」
泣きそうな声だった。
俺が顔を上げて見ると、マトは人を殺し損ねたかのような形相でこちらを見下ろしていた。顔を見ずに声だけを聞いて確信した。
こいつは見た目ほど凶暴・凶悪なんじゃない。ただただ、目つきが悪いだけなんだ。
マトはしばらく考え込んでいたが、振り絞るようにゆっくりと話し出した。
「私はこれを使うつもりはないんです」
分かってる。でも、その言葉を、マトを信じる信じないじゃなくて、俺はリスクを回避することを選んだんだ。俺は心を鬼にして訊いた。
「じゃあどうしてこれを渡さなきゃいけないの? 使わないんだったらいらないよね」
俺はまるで持ち物検査の嫌みな教師のようだった。だが、マトは即答した。
「回収しなければ誰かが誤って使ってしまう危険があると考えています」
それは確かにそうかもしれない。コンピュータ部のPCが感染せずに済んだのは、コンピュータに詳しい細田が「怪しいUSBメモリ」だと疑ってかかったからだ。挿しただけでPCを乗っ取ることができるんなら、普通はイチコロだろう。
でも、マトの言葉をそのまま信じていいのか。
そんなヤバいUSBメモリを持って授業中隠れていたヤツのことを信じていいのか。
そのとき、俺の頭に一つの案が浮かんだ。
「衣川さんも俺も使う気がなくって、ただ他の人に使われたりすることを恐れているだけだよね?」
「そうです」
「じゃあ、話は簡単だ」
俺は手に取ったUSBメモリを、マトの目の前でぱきっと割った。
「これで誰も使えない」
俺はマトの顔を見た。意外にもマトは少し笑っていた。
「なるほど、それはいい案です。気づきませんでした。鷹野さんは頭がいいのですね」
「え、あ、ああ。そんなこと言われたこともないけど」
「念には念を入れて、コントローラを確実に破壊してしまいましょう」
「え、どうやって……」
「てこの応用でなんとかなると思います」
マトは折れたUSBメモリを受け取ると、屋上のドアを開いた。ドアの蝶番の上にUSBメモリを置いてドアを閉じる。USBメモリを挟み込んだドアはミシミシと音を立てながら閉まった。
チップは中央からぱっきりと折れていた。
「契約書代わりに半分ずつ持っておきますか?」
マトは折れたUSBメモリの片割れを俺に差し出した。俺は苦笑するしかなくて、それをマトは不思議そうに見ていた。
*
翌日。
あの一件があって、俺のマトに対する印象はすっかり変わっていた。
マトは目つきが悪い。悪すぎる。それは今でもそう思う。
だが、それだけだ。
それを取り払ってしまえば、そこには気弱で、内気なやせっぽちの女の子しか残っていなかった。
マト自らUSBメモリを破壊した今になってみれば、悪事を働くつもりはなく、むしろそれを阻止するつもりだ、というマトの言っていたことは本当だったんだろうと思う。でも、俺はそれを信じ切ることはできなかった。
不確定なリスクを回避しようとした俺の行動は大局的に見れば正しかったのだろう。
でも、正しいことが何も傷を残さないわけじゃない。「契約料」はもともと受け取るつもりではなかったけれど、俺にはそれがマトの真摯な思いそのものであるように感じられた。なのに、俺が受け取った途端、それは不実の塊に変わってしまった。約束を守らなかったのは俺の方だ。
契約料はなくても絶対他言しないから、と茶封筒を差し出してもマトは頑として受け取らなかった。
だから、俺はモノで返すことにした。
午後のホームルームで担任教師の話を聞き流しながら、俺はポケットの中の膨らみをそっとなぞった。俺の斜め前の席のマトはいつものように顔を隠すように机に突っ伏している。
担任教師は教卓で書類をとんとん、とまとめながら最後に付け足すように言った。
「それから、中間試験の問題が漏洩している、という噂が流れているらしいが、それはデマだから踊らされないように。もし、そういう噂を聞いたら先生に知らせてくれ」
試験問題の漏洩……?
教室のざわめきが一瞬、水を打ったように消える。みんな教師の言葉とは裏腹に、それがデマではない可能性があることを察したのだろう。
まさか、あのUSBメモリが関係していたりしないよな、と、俺はマトの方を見た。マトはいつの間にか起きていて、がたがた震えながら冷や汗をだらだら流していた。
マジかよ……。
ホームルームが終わるなり、俺はマトを屋上に通じる階段に呼び出した。
*
「ななななななんですか、ここここんなところに呼び出して」
「まずは落ち着け」
肩を抱くように身を縮めるマトにそう言って、俺は階段に腰を下ろした。マトは及び腰で俺を睨み付ける。
「試験問題の漏洩って、あれが関係してるのか?」
「にゃ、にゃんのことで」
噛んでる噛んでる。
「つまり、あのUSBメモリはすでに悪用された後だったのか、ってこと」
「違いま……え?」
「そうじゃないのか」
「え、いえ、その、可能性はあります」
「そうか、やっぱりそうなのか」
俺は頭を抱えた。誰だか知らないが、あれを使って教師のPCを乗っ取ったヤツがいるんだろう。まったく、なんでそんなことを……。
「あの……」
「うん?」
心細げに話しかけるマトの声に顔を上げる。
「私を疑ってるんじゃないんですか……?」
「え? だって、衣川さんはアレを回収してたんでしょ。悪事に使われないように」
「そう……ですけど……信じてくれるんですか?」
「うん。信じるよ」
遅いかもしれないが、許されるなら今からでも信じさせてほしい。
俺はポケットの中の物を取り出した。
「なんですか、これ」
マトはリボンのついた小さな箱を不思議そうに眺める。
「開けてみて」
マトが現金を受け取らないのなら、プレゼントという形で還元すればいい。少なくとも俺としては筋の通った話のつもりだ。
「……眼鏡?」
「度やサイズが合わなかったら店で直してくれるから、かけてみて」
「はぁ……」
マトはいぶかしがりながらも眼鏡をかけた。
「……」
「……」
俺は言葉を失った。
そこにいたのはめちゃくちゃな美少女だった。
思ったとおり、あの凶悪な目つきは極度の近眼のせいだったようだ。眼鏡をかけ、ぱっちりと目を開いて周りを見回すマトの瞳はキラキラと輝いていて、まるで妖精のように光をまとっていた。
「すごい……すごいよく見えるよ鷹野くん!」
「あ、ああ、よかったな」
「あはは、すごい!」
眼鏡を付けたり外したりして、マトはケラケラと楽しそうに笑った。
初めて見る表情だった。世の中のすべてが気に入らない、そんな顔のマトしか知らない俺にとって、それは眼鏡の奥のぱっちりとした瞳よりも衝撃的だった。
なんの変哲もない壁や廊下、階段を見ては世紀の大発見をしたように「すごいすごい」を連発する。ひょっとして、授業中ずっと寝ているのも黒板が見えないから、なんじゃないだろうか。
「そっか、眼鏡かー。鷹野くんはすごいね。いろんなことによく気がついて」
そう言いながらマトは眼鏡を外し、ケースにしまうと俺に差し出した。
「ありがとう!」
「え、いらないの?」
「これから買いに行く!」
「いやいやいやいや、ちょっと待て」
「?」
とことんズレてるヤツだ。俺はこれは自分からのプレゼントだということ、これをあげても契約は守る、ということ、を丹念に説明した。マトは自分へ贈り物をする意味がわからない、と何度も繰り返したが、結局、対価となるなにかをいつか返す、ということでどうにか折り合いをつけた。でもなにをいつ返せばいいのかわからない、と言うマトに、
「ちなみに俺の誕生日って七月二七日だから」
と、わざとらしくヒントを出してみたが、マトは「はあ」と気の抜けた返事。
「どうして今それを言うんですか?」
「……世迷い言だよ。頼むから、眼鏡かけてくれ」
俺は大きくため息をついた。その目つきで言われるとまるで罵倒しているように聞こえるんだってば。
「それで、今後もアレが悪用される危険性はあるの?」
モノはすでに処分しているから、これ以上感染が広がったりすることはないだろう。だが、すでに感染しているPCがあるのなら、継続的に漏洩し続ける危険性は高い。
「たぶん、大丈夫です。C2サーバのログイン権限を潰したので、犯人も操作することはできないはずです」
眼鏡をかけてご機嫌な様子で天井を見ながらマトは答えた。
C2サーバがなんのことかはわからない。あとで細田に訊いてみよう。
「あれはいったい誰から回収したものなの? そいつが犯人なんでしょ」
「それは言えません」
「守秘義務……だっけ? じゃあ、その、先生たちに『乗っ取られているPCがある』って警告した方がいいんじゃない?」
「ダメです。依頼者の不利益になることはできません」
「警告をすることが依頼者の不利益になる……?」
マトははっとした顔をしたが、ぷいっと横を向いた。
「鷹野くんは頭いいからもうしゃべりません」
ちょっと拗ねているようでかわいい。これが眼鏡かけてなかったら怒らせてしまったか、とガクブルしてるところだが。
「ともかく、これ以上の漏洩が起きない、というんだったらこれは二人だけの秘密ということにしよう。二人だけの、さ」
犯人が分からないのは気持ち悪いけどしょうがない。こういう秘密の共有が二人の距離を縮めるんだって、なにかで見たような気がする。
マトはさっくりと「秘密保持契約があるから当然ですよ?」と切り返した。
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