第一話 試験問題漏洩事件

その1 清掃用具入れの中の目つきの悪い女

 見上げた空は火花混じりの突き抜けるような青空だった。


その他大勢モブが慣れないことすっから――いつもどおり目立たないようにしとけって」

「あ、ああ――悪い」


 なんで怪我した俺の方が謝んなきゃいけないんだよ、と思いつつも事を荒立てたくない俺は、グラウンドに転がったままサッカー部のレギュラーに向かって片手を立てる。

 ワールドカップでは歴史的金星を上げた日本代表チームへの半端ねぇ賞賛と興奮にわき上がっているというのに、俺ときたらこのとおり、体育のサッカーで鼻にヘディングを食らってKO、という締まらない有様だ。


「――別に好きでその他大勢モブやってんじゃないよ」


 つぶやいて上体を起こすと鼻からずる、と血が流れ落ちた。それを見た体育教師が大声で叫ぶ。


「高田ぁ、鼻血止めてこい」

「はいぃ」


 俺――鷹野たかのたすくは鼻声で応える。そう、俺は鷹野だっつーの。ティッシュもハンカチも持ってない俺は仕方なく教室に戻ることにした。


 誰もいない教室はしんとしていて、時折上がるグラウンドからの歓声がよく聞こえる。制服のズボンからティッシュを取り出して鼻に詰めながらグラウンドを見下ろしていると、後ろでカタン、と音がした。

 びくっとして後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。


(気のせい……か?)


 視線を左右に這わせる。教室の後ろには作り付けの棚と清掃用具入れがあるだけだ。たぶん、清掃用具入れの中で箒か何かが倒れたのだろう。俺は扉の取っ手に手をかけた。

 扉は三センチほど開き、そして瞬時に閉まった。


 最初に感じたのはぞわっとした恐怖心だった。誰もいない教室の清掃用具入れの中に誰かが隠れている。

 一番あり得るのは泥棒――空き巣だろう。そして、空き巣の一番怖いところはその窃盗による被害よりも、人と出くわして居直り強盗と化すところだ。

 俺は清掃用具入れから目を離さないように自分の席に戻ると、制服のポケットから財布を取り出した。中身がきちんと入っていることを確認すると、俺は財布を持ってそのままそっと教室を出ようとした。大した金額ではないけれど、盗まれて笑えるほどの余裕があるわけでもない。

 教室のドアを開けようとしたとき、ふと足が止まった。


 ――これじゃ、今までと同じじゃないか。


 事なかれ主義の日和見主義。その他大勢モブと言われることにうんざりしていながら、結局のところそれは俺の選択の結果だ。俺は財布を制服のポケットに戻すと、再び清掃用具入れの前に立った。


 深呼吸してから取っ手に手をかけ、ストッパーが外れるのを確認してぐい、と引く。


 カチャッ、パタン。


 開きかけた扉は再び閉まる。勘違いだといいのに、という淡い期待は完全に消えた。もう一度深呼吸する。


「……よし」


 俺は右足を清掃用具入れのフレームにかけ、せぇの、と力任せに扉を引っ張った。


「きゃあっ」

「痛ぇっ」


 開いた扉とともに黒髪の女の子が飛び出してきた。というか、転がり出た。

 女の子は俺よりも十センチくらい低くて、鼻に見事なヘディングを決められた俺はもんどり打って倒れ込んだ。


「ってぇ……なんで同じとこを……」


 俺が鼻を押さえながら上体を起こす。勢い余って俺の上に覆い被さるように倒れていたその女の子も、おでこを押さえながら立ち上がろうとしているところだった。白い体操服から伸びる手足は細く華奢で、その上に長い艶やかな黒髪がかかっている。その顔には見覚えがあった。


衣川ころもがわさん――?」


 衣川マト――俺と同じ2-Bの生徒だ。マトは髪を耳にかけると、俺を睨み付けた。


「どうして私の名前を知っているんですか? あなたは誰ですか?」


 思わず肩がかくん、と抜けそうになった。

 マトはクラスでは浮いた存在で、友達がいないどころか、他の誰かと話していることすら見たことがない。話しかけてもものすごい殺意を帯びた鋭い眼光で睨み返されるから、六月の今となってはもう誰も話しかけなくなっている。先生すら、授業中いつも寝ているマトを注意しないくらいだ。

 だから、きっと名前も覚えていない生徒は俺だけじゃないはず――そう信じたい。


「同じクラスの鷹野だけど……」


 気を取り直して言ってみる。


「たか……の? なるほど」

「え、なにが『なるほど』なの?」


 納得したように人差し指を唇に当てるマトに訊ねる。マトは俺の方を睨み付けながら答えた。いちいち怖いな、こいつ。


「あなたは授業中や、出席をとっているときに私の名前を知ったのでしょう」

「……」


 なに言ってるんだこの人。

 だから同じクラスだって言ってるじゃないか。唖然として黙り込む俺に、マトはたたみ込むように言った。


「同じクラスだと名前を知る機会があってもおかしくありませんから」


 マトは口角を上げ、獲物を標的に収めた獣のような目つきでふん、と鼻を鳴らした。だったら俺の名前も覚えておいてくれ。


 あれ?


 あまりにも当たり前のことを言うから、その意図を図りかねたけど、ひょっとしてこれはドヤ顔なのか?


「そうだねーすごい推理だねー」


 俺が棒読みで言うと、マトは拳を腰に当て、胸を張ってからもう一度鼻を鳴らした。やっぱりドヤ顔だったようだ。

 反らした胸には高校二年生女子にあるべきものがまるでなかった。


 はっ。つい流されて大事なことを忘れるところだった。俺はマトに負けないような鋭い目で問いかけた。


「それで、衣川さんはなんで清掃用具入れに隠れてたの?」

「そ、それは……」


 自信たっぷりだったマトは急に目を泳がせ、両手をさっと背中に回して言葉を濁す。ずいぶんとわかりやすい人だ。


「その後ろに隠した手、見せて」

「い、いやこれはなんでも……」


 マトはなにかを思いついたようにパッと表情を変えると、後ろ手でごそごそさせてから「はいっ」と両手を開いて見せた。

 俺は体を傾けてマトの後ろを覗き込む。マトは俺の動きに合せて背後を守るように体を回転させた。


「なんですか、手は見せましたよほら」

「じゃなくて、その後ろにあるもの見せて」

「なぜ後ろになにかあると思うんですか」


 俺はマトの後ろにさっと手を伸ばした。マトは慌てて体を捻って、なにかを隠そうとしたが、一瞬俺の方が早かった。

 それはUSBメモリだった。


「返してください!」

「おっと」


 マトに奪われないよう、咄嗟にUSBメモリを持った右手を高く掲げる。それを見たマトはひっ、と声を漏らすと頭を抱えた。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

「衣川……さん……?」


 亀のように体を小さく丸め、ブルブル震えながら繰り返すマトの姿は冗談でやっているとは思えなかった。俺は自分の振り上げた右手を見た。殴ろうとしているように見えなくもないかもしれない。

 気がそがれた俺はため息をついて、近くの椅子に座った。


「ねえ、衣川さん。俺はただ、なんのために、体育の時間、誰もいなくなった教室に隠れていたのかって訊いてるだけなんだ」


 マトは顔を上げようとしない。俺は手の中のUSBメモリを掲げて見る。


「これ、誰の?」

「私のだから返してください!」


 嘘が下手なくせに、意外にも即答だった。


「どうして清掃用具入れの中に隠れていたのか教えてよ。そしたら返す」

「そ……それは」


 マトは再び視線を落とした。


「……時間」

「は?」

「時間をください。明日、いや今日の放課後、お話しします」


 なんだそれ。言い訳を考える時間をくれ、と言っているようなものじゃないか。

 そのとき、授業終了のチャイムが鳴った。


「わかった。じゃあ放課後。USBメモリはそのとき返す」


 俺は慌てて言った。なんにしてもこの場を他の人に見られるのは避けたかった。


「あの、私の方からも一つ訊いてもいいですか」


 マトは鋭く睨み付けながら、恐る恐る手を挙げる。

 どうにも表情と様子がかみ合わない。俺はどうぞ、と手のひらを向けた。


「その、どうして私がたか……の? くんの鼻にぶつかるって分かってたんですか?」

「へ?」

「その、あらかじめ鼻にティッシュを詰めておくくらいなら、避けることもできたんじゃないのかな、って」


 マトに指さされて、俺は自分がティッシュを鼻に詰めていることを思い出した。鼻血を予想してティッシュを詰めておくヤツなんているわけねえだろ、と心の中で突っ込む。多分こいつはツッコミ待ちのボケじゃない。天然だ。


「どうしてもそこだけが分からなくて」

「そうかー、そこだけ分からないかー」


 俺はとても慈愛と憐憫に満ちた笑顔で手を伸ばした。

 マトはひっ、と声にならない悲鳴を上げて身をすくめた。俺の手がマトの肩に触れ、とんとん、と軽く叩いても縮めた肩は戻らなかった。


    *


 放課後。


 俺はコンピュータ部の部室に向かった。コンピュータのことはまるで詳しくないけれど、ここには知り合いの後輩がいる。


「お邪魔しまーっす」


 声をかけながら引き戸を開けると、モニタの陰からテクノカットの頭がひょこっと現れた。


「ども、鷹野先輩。珍しいっすね」

「よ、細田。ちょうどよかった」


 細田とは中学のときにゲームセンターで知り合った。パソコンに詳しいので、なにかあったときには相談に乗ってもらっている。もっとも、俺の方から何か提供できるものはほとんどないから、頼み事も控えるようにしてはいるつもりだ。


「どうしたんですか」

「ちょっとこれ、中身見てもらいたいんだけど」


 俺はマトからUSBメモリを渡した。


「何なんすか」

「よく分かんないから見てもらいたいんだ」

「ふぅん」


 細田はUSBメモリを受け取ると、しばらく矯めつ眇めつ眺めてから言った。


「これ、開けてもいいですか」

「別にいいけど……なんか変わったところでもあるの?」

「開けてみないとなんともですけど……ああ、やっぱりそうだ」


 細田はUSBメモリのガワを器用に開くと、中のチップを俺に見せた。


「これ多分ヤバいやつですね。ほら、このチップ。Phisonの2307でしょ」

「よく分かんねえけど、ヤバいのか?」

「これ自体がヤバいわけじゃないですけど、よく分かんなくて僕に中身を見てほしい、って言うUSBメモリのチップがコレだって言うんなら、ヤバい可能性が高いですね」


 どうにも回りくどい言い方でわかりにくい。厳密さを求めるプログラマのさがなんだろうか。


「Phisonの2307にはファームウェアを書き換えるためのツールが出てるんですよ。Psychsonって言って、元々はPhisonの2303用だったんですが」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。つまりその、ファームウェア? ってのを書き換えるとどうなるんだ?」

「デバイスクラスを偽装できます。USBデバイスの挙動をエミュレートできるわけです」

「俺にもわかるように言ってくれ」


 細田は話し足りなそうにしながらも、言葉を選ぶように言った。


「PCを乗っ取れます」

「わかりやすい」

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