きっと傘を忘れる
坂鳥翼
第1話 衝突 ①
篠原
髪の先端に達した櫛が、するりと抜けていく。
これでよし。
美佳は端正な顔に、満足気な笑みを浮かべた。
肩甲骨の下まで伸びた髪の手入れは毎朝、毎晩、欠かせない。
制服の上に着ているパーカーのポケットに、櫛をしまう。
「それじゃ、行ってきまーす! 」
洗面所から玄関に向かい、リビングにいる父と母に声をかけた。
「何時に帰るのか、連絡しなさいよ」
「分かってるー」
黒地に白いラインがあしらわれたスニーカーの紐を結び、立ち上がる。
白いパーカーのチャックを胸元の辺りまで閉めた。
夏が終わった。もうすぐで冬がやってくる。
暑くも寒くもない、まさに理想の季節。
玄関の扉を開ければ、快適な気温が待ち受けている。
「コーディネートも捗るし、やっぱり秋って最高」
美佳は上機嫌で家を出た。
少し早めに起きたせいか、朝の眠気が全く感じられない。
完全に覚醒した身体は、最寄り駅までの道のりも、何のその。
美佳は鞄からイヤホンのコードを手に取り、ポケットの携帯端末に繋げた。
イヤホンを耳に装着し、音楽を流す。
大好きなアーティストの新曲で朝を迎える幸せを噛み締める。
(本当に、今回の新曲もかっこいい)
思わず口元を手で覆う。
しまった。つい、だらしない顔をしていたかも知れない。
歌詞を頭の中で反芻しながら、いつもの道を歩く。
(星空を抱き締めて、っていう歌詞、何度聞いても心に刺さる)
一曲があっという間に終わってしまう。
(今日は、この曲だけ聞いていたいかも)
音楽再生機能の画面を操作し、お気に入りの一曲だけを再生するように調整した。
(ミーティアのライブ、当選するといいな)
ミーティアは、美佳が今聞いている曲を歌っている、アーティストの名称だ。小学生の頃から好きなロックバンドだが、全国的にも有名な彼らのライブに当選するのは確実なことではない。毎年応募しているが、落選した回数の方が多い。
一ヶ月後に明かされる当落の結果が待ち遠しい。
(前回のライブ行けなかったんだから今度こそはお願いします神様)
信仰を捧げる神など持ち合わせていない美佳でも、神という概念に祈る有様である。
住宅街を抜け、国道沿いを歩く。
入り組んだ道を歩くより、国道を真っ直ぐに歩いた方が、駅には早く着く。
家を早く出たのも相俟って、いつもより十五分早い時間に駅のホームに到着した。
丁度良い時間に電車が来るようだ。
電車が駅に入ると同時に、風が吹き荒ぶ。
夏よりも冷たい風。
(そろそろ冬物の上着を用意しないと)
電車に乗り込み、空いている席に座った。
驚いた。いつも乗る電車よりたった十五分早いだけで、こんなに快適だったとは。
朝の通勤通学ラッシュの時間帯、席に座れる可能性はゼロに等しい。たった七駅の距離だ。立っていても、さほど支障は無いのだが、快適さという意味では、やはり座れる方が嬉しい。
次に停まった駅では、まとまった人数が乗り込んできた。
美佳の前に立った年配の女性が、大きめの咳をした。下に座る美佳に息がかかってしまいそうなほどの咳だった。
(うわ、最悪。咳するならマスクぐらいしてよ。こちとら学生だし、風邪なんて移されちゃ大変なんだから)
美佳は目の前の女性に向けて、かなり分かりやすく顔をしかめる。わざとではないのだが、美佳は感情が表に出やすい類の人間だった。
美佳の渋るような顔に気付いた年配の女性は、やや背を曲げて、小声で「ごめんなさいね」と言った。
不意に謝られたことで、美佳は面を食らう。
「いや、別に」
女性は申し訳なさそうな態度を見せる。
内心で嫌がっていた美佳だったが、謝られてしまうと人並みの優しさが勝るようで、出来る限りの優しい笑顔で手を横に振った。
そして
「ここ、座ってください」
相手は謙遜をしていたが、譲った手前、断られると格好が悪い。
少し強引に席を離れ、女性に席を示す。
観念したのか、女性は落ちつかない顔つきで美佳が譲った席に座った。
美佳は満足気に微笑むと、ポケットから携帯端末を取り出して、画面を弄り始めた。
(座れたのはラッキーだったけど、まぁ、そこまで座りたいわけじゃないもんね。それに、足痩せするかも知れないし)
携帯端末の画面を眺めているだけで、かなりの時間を消費できる。気が付けば、目当ての駅に着いていた。
(さて、たまには学校まで遠回りしてみるか)
駅から大通りを真っ直ぐ歩くのがいつもの道のりだが、他にも、住宅街を経由する選択肢がある。曲がり道も多く、道も狭いため、余裕があるとき以外は使わない道のりだ。
(今日のお菓子は、どれにしようかな)
駅を出ながら、道中のコンビニで買うものに思いを馳せる。
(午前の紅茶の新作でも試してみるか)
ほぼ毎回買う、午前の紅茶ミルクティー。それが美佳のお気に入りの飲み物だ。甘すぎるくらいで、丁度良い。新作が出たとあっては、試さずにはいられない。
駅の目の前に広がる大通りを曲がり、横路に逸れる。
商店が次第に少なくなり、マンションや一軒家などの住宅の割合が多くなる。
最初の交差点に、コンビニがあったはずだ。
大通りよりも細い歩道を歩いていると、救急車の赤いサイレンが美佳の横を通りすぎた。
美佳は足を止める。
(今のは……)
サイレンの音が展開されたのは、美佳の鼓膜だけ。周りの人間には聞こえていない。何しろ、救急車など通っていないのだから。勿論、大通りを救急車が通ったわけでもない。人間の耳がサイレンの音を拾える範囲に、救急車は走行していない。
美佳はイヤホンを装着していたが、救急車の音はイヤホンの外側ではなく、内側からもたらされた。誰の耳にも届かない音を、美佳だけは拾う事が出来る。
視界の先で、制服を着た誰かが道に倒れている。
それも幻。現実に倒れている人間など、いない。目の前に広がるのは、閑静な住宅街。それ以外の景色など、実際には在りはしない。
目指していたコンビニの目の前に、青いセダンの車が制服を着た少女を跳ねるという映像が見える。
全ては、美佳の目と耳の中で繰り広げられただけの光景。
住宅街の中で静かに営業を続けているコンビニに、事件の面影など残ってはいなかった。
(二日前か……)
美佳は歩みを再開させる。
(やだ。クラスメイトじゃん)
目にしている現実の風景に被せるようにして見える二日前の景色。
車に跳ねられた制服の少女の顔は、クラスメイトのものだった。
(この感じだと、大事には至ってないっぽいな。救急車で運ばれて、無事なパターンか)
もしも二日前に車に跳ねられたクラスメイトが死亡していた場合、美佳にはそれが分かる。
理屈ではないのだ。本人にも説明がつかない。分かるから分かる。それしか言い様のない現象。
美佳は、人には見えない、聞こえない、感じないものを敏感に悟る能力を有していた。
美佳はとぼとぼ歩き、ため息をついた。
(ちょっと早起きして、ちょっと遠回りしたのは、このためだったのかなぁ……)
視界の中を動き回る残像。
今歩いたところに、クラスメイトの鞄が落ちたらしい。
肩に提げていた鞄が手元を遠く離れ、通りすぎた箇所に、どさりと着地する。ぴかぴかに光る学生鞄は、きちんと手入れがされているようだ。
今はもう鞄なんて見当たらない。どうやらきちんと回収されたようだ。
前を向けば、オレンジ色の暖かい光のようなものが、数メートル先の電柱の周りを漂っている。あれは何だろうか。
近寄ってみれば、銀色の万年筆が落ちていた。
拾い上げてみると、確かな質量が感じられる。
「何これ、かっこいい……」
銀色に煌めく整ったフォルムには、重厚な装飾が施されている。
(なんか、思い入れがあるやつなのかな……)
オレンジの気配は、恐らくはこれだ。
ぼんやりと万年筆を眺めていると、現実とは別の映像が、脳内に直接写し出される。
にこやかに笑う老婦人の顔。白髪混じりの髪を後ろで結わえ、簪のような髪飾りをつけている。優しそうな人だ。
次いで、蜜柑の匂いが鼻腔に広がる。此処で実際に蜜柑の果実を食しているかのように鮮明な匂いだ。
映像が切り替わる。
茶色いテーブルの上で老婦人と共に蜜柑の皮を剥く幼い掌が映る。庭に生える、蜜柑の木。橙色の身が沢山実っている。
(もしかして、おばあちゃんから貰った思い出の万年筆、みたいなパターン? )
美佳は、万年筆を自分の鞄の中にしまった。
(あんまり話したことない子だけど、これくらいはね)
美佳は真っ直ぐにコンビニに立ち寄り、新作の午前の紅茶アップルティーと、ラムネを買って、店を出た。
美佳は、人の心が見える。正確には、心の残像を感じ取ることが出来る。
そのため、心を読み取るとは言っても、目の前の人間の現在進行形の感情は分からない。
未練や執着、心配など、人が強い感情を抱いたときに、その場に残った心を、美佳は感じ取っている。
心とは、現実世界に漂い、残存するものなのだ。
残り香のように漂う心が、美佳に、その心に纏わる、視覚的または聴覚的な情報をもたらす。美佳の感覚は、世に言う、第六感に近いものかも知れない。
教室に入ると、仲の良い女子が駆け寄って来た。
「美佳、知ってる? 前原ちゃんが二日前、車に轢かれたんだって!! ヤバくない!? 」
肩に触れるぐらいの明るい髪をした、美佳より少し背の低い女子。名前は須田
充が出会い頭に話した事の全ては、朝に知ってしまっている。
既に知っている事柄に対して、美佳の反応は淡白なものだった。
「ふーん」
「反応薄くない? 」
「轢かれたというより、跳ねられたんじゃないの? 」
車体と体がぶつかった時、車の質量に容易く負け、跳ね飛ばされる彼女の姿を、自分は知っている。彼女は車の下敷きになっていない。間一髪で車の運転手はブレーキを踏んでいた。両者の衝突は避けられなかったが、ブレーキが間に合わなければ、彼女は大怪我をしていただろう。打ち所が悪ければ死んでいたかも知れない。
自分の席に向かう美佳の後ろに、充はついて回る。
「轢かれたも跳ねられたも、大した違いじゃなくない? 」
充は首を傾げた。
美佳はしまった、と口をつぐむ。
(実際に見ちゃってるからなぁ……)
取り繕うように、美佳は充に訊ねる。
「それで、無事なの、前原は」
無事ということは知っているが、ここは事態を知らないように振る舞うことにした。
「うん、腕の骨折だけで済んだみたい」
「そっか、腕の骨折だったんだ」
先程感じた残像を思い出す。
(本当は腕の骨折に加えて、膝に深い擦り傷があると思うけど)
あの場所で、膝から垂れる血の気配を感じた。骨折に比べたら大したことない怪我なのかも知れないが。
席についた美佳に、充は更に続ける。
「それでさ、駅から遠回りの道、知ってる? 学校に来るまでに一軒だけコンビニがあるじゃない? そこで轢かれたらしいよ」
「朝、そこ通ったよ」
充は身を乗り出した。
「マジで? どんな感じだった? 」
「別に普通だったけど」
充は乗り出した体を元に戻す。クラスメイトが事故に遭遇したという非日常から漸く醒めたらしい。
「そっかぁ。二日前だもんね」
「前原、今日は休みかな」
教室の前方。誰も座っていない、前原の席を見た。
「分っかんない。あたし、そこまで前原ちゃんと仲良いわけじゃないんだよね」
鞄を机の横に掛け、美佳は思案する。
(拾った万年筆、出来るだけ早くに渡したいんだけどな……)
「そうだ、充。前原の連絡先、知ってる? 」
「知ってるけど、なんで? 」
「お見舞いのメッセージとか、送ってあげたいし」
万年筆に関わることは、充には伏せておくことにした。親しい間柄であれば、道に落ちている万年筆が彼女のものだと気付くのに何の問題も無いが、あまり話したことのないクラスメイトの万年筆を拾ったというのは、流石に違和感がある。盗んだなどと誤解されては御免だ。
チャイムが鳴って、担任の教師が教室に入って来る。
充は「あとでね」と言い残してそそくさと自分の席に戻った。
教師は教卓で話を始める。
「知ってる人も多いかも知れないが、前原が事故に遭って、今日と明日は欠席だ。腕を骨折したらしくてな、たしか……足も怪我をしたらしい」
後はいつも通りのホームルームに戻った。
真ん中の列の一番後ろの席で、美佳は頬杖を付きながら教師の話を聞いていた。
(前原が学校に来るのは明後日か……)
鞄の中で眠っている、銀の万年筆のことを考える。
(人の思いが籠ってるモノって、あんまり持っていたくないんだよな……)
出来れば早めに渡しておきたいが、仕方がない。明後日まで待つことにしよう。
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