アダンソンが死んだ
コオロギ
アダンソンが死んだ
ああやばいやばい時間がないって焦ってたら床に積んであった本を蹴っ飛ばして一冊がつるうううううっと棚の下の隙間に入り込んでああああああもうと思いながら手を突っ込んで引き出したら埃まるけになったアダンソンも一緒になって出てきてあたしの時間は停止した。
え、うそ。え、うそうそ?うそ、ほんとにアダンソン?
一応疑ってみるけれどどう見てもどう考えてもそれはアダンソンだった。手足はぎゅっと丸めたまま、固まってるみたいにぴくりともしないのはアダンソンらしさの欠片もないけれどやっぱりどうしてもそれはアダンソンだった。
アダンソンが死んでいた。
わ、アダンソンだ。アダンソンは唐突にあたしの部屋に現れた。あたしの小指の第一関節から先部分のさらに二分の一サイズの小さなアダンソンは窓際をちょこちょこと歩いていた。たまに窓へ上ろうとして両手を一生懸命に伸ばしていたけれど、滑って失敗して転げ回っているのを何度も目撃した。そうまで上りたいのならとアダンソン用の梯子を用意してそっとかけてみたのだけれど、アダンソンはそれの意図をまったく理解せず、梯子はただのオブジェと化し、相変わらずアダンソンはその真横で手を伸ばしては失敗を繰り返していた。
アダンソンはいつも部屋のどこかにいた。どこかは定まっていなかった。アダンソンはいつも放浪していた。窓辺にいないときは、テレビの裏で休んでいたり、キッチンをぶらぶらしたりしていた。そんなだから、外から帰ったときはアダンソンを踏みつぶして殺してしまわないように、真っ先にアダンソン探しを行うのが常となっていた。
それが一か月前。
朝、いつものようにアダンソンの姿を探した。朝はだいたい窓際で朝日を浴びていることが多かった。けれどその日、そこにアダンソンの姿はなかった。キッチンも探したし、カーペットの上もじいっと見つめたけれど、いなかった。どこかの影にでも隠れているんだろうと特に気に留めずに外出して、帰ってからまた捜索したけれど、アダンソンは見当たらなかった。
そんな日が三日続いて、さすがにあたしも、アダンソンがいなくなったかもしれないと気づいた。
知らずに踏んづけてしまった可能性もあったけれど、ふらりと現れたのだから、ふらりとどこかへ行ったのだと思うことにした。アダンソンとは一切意思の疎通はなかった。一緒にいた、なんていうのもおこがましい、降って湧いた同居人だったけれども、なんとなく楽しい日々を過ごしたと、その二週間を振り返った。
それが二週間前。
今、あたしは固く動かないアダンソンを見下ろしている。あんなに忙しなく動き回っていたアダンソンは、もう二度走ったり飛び跳ねたりしないのだ。窓にはまだあのなんの役にも立たないオブジェが設置されたままだ。
あたしの心は静かだ。無音すぎて耳鳴りがする。ああ、アダンソンは、どこにも行っていなかった。ずっとあたしの部屋にいたのだ。
どこかに去っていたのなら良かった。デッドエンドなんて最悪中の最悪だ。今日、本に躓かなければこの事実を知ることもなかったのに。ああでもそれは、アダンソンが死んでいたことを知った今となっては、アダンソンを死んだまま放置することになっていたかもしれないということだ、それはだめだ、絶対だめだ。
乗る予定だったバスのぷっぷーという軽い音が遠くで聞こえた。やっちまったなと思うけれど、これでもう何の気兼ねもする必要がなくなったということだ。
涙なんて出ない。今日だってしっかりご飯は喉を通るだろう。アダンソンは家族でも友達でもない。なんでもない。ほんの少しの間、同じ箱の中で過ごした、たったそれだけ。
勝手に入ってきたんだから、勝手に出ていくものだと思って、ずっと放置していた。あれだけよじよじしていたんだから、外に出してあげればよかったかな、なんて、さっと後悔が通り過ぎていった。
アダンソンをそっと手のひらに乗せる。初めて触れたアダンソンは冷たくも温かくもなかった。ベランダに出て、サボテンの植わった鉢の土の上にアダンソンを寝かせた。
土に還るもよし、風に吹かれて飛んでいくもよしだ、お前はもう外にいる。
室内を振り返る。戻れば、あたしは一カ月前と同じ。そう、同じはずだ。
それなのに、どうしてアダンソンがもういないというだけで、この箱の中はこんなに漠然と映るのだろう。どうせ三日も過ぎればこんな感傷跡形もなく消えるのは分かっている、それは絶対事実になる。
あたしは部屋に戻り、窓辺の梯子をゴミ箱に捨てた。
そのとき胸に広がった波紋が、ちっぽけなアダンソンの、どうしようもない偉大さなのだと思った。
アダンソンが死んだ コオロギ @softinsect
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