3. Footsteps

 その茶畑の奥に、異質な一画があるのが目に留まった。周りを低木(これも茶ノ木のような、違うような)が囲み、番人のように一本の木(梅のような、違うような)がすっと立っている。その囲い込まれた中にあるのは、一基の墓である。厳しい冬の間も来る芽吹きの季節に向けて命脈を保ち続ける、隆々とした茶畑の「生」の空間から、人為的な区切りによって隔絶され、青い冷たい影の中に隠れるようにひっそり佇んでいる。

 寒そうだな…。にわかにうら寂しい思いに駆られ、視線を転じた。

前方に、翼を広げた鳥のようなダムの上部が目に入った。(後で知ったのだが、これは山からの土砂の流出を防ぐために設けられた「砂防ダム」であるらしい。)もう少し先に進めば、近づけそうである。その手前、ダムを横切るようにして、白い柵がずっと続いている。雪に埋もれているが、どうやら道があるようだ。

 県道に戻る。左側にも、道路のすぐ横までせまる山林をわずかに切り開いて耕作した、小さな茶畑があった。限られた土地に、長さの異なるI字のテトリミノばかりを隙間なく収めたようで、その見事さに、片付けのできないボクは、脱帽せざるを得ない。その中で茶ノ木達に詰め寄られるような具合に一本立っている電信柱が、ほかの電柱より細く見える気がする。もちろん錯覚だ。

 しばらく行くと茶畑は終わるが、その果ての印のように一本、青々と葉を茂らす樹木が現れた。周りの高木が冬枯れる中、深い緑のつややかな葉を枝の先までたっぷり生やし、樹勢を誇っている。さながら茶ノ木の隊列を指揮する部隊長のようだ。よく見ると、日の当たる側に集まって、点々と鮮やかな黄色の実がなっている。柚子だろう。その横には電気柵で囲まれた小さな畑があり、その奥で、間近に迫ったダムの手前の道の白い柵が、この平地の果てを縁取っている。さあ、この縁取りを歩いてみませんか、とでも言いたげに、その細道は県道から腕を広げていた。

 その下り坂をわずかに進んだところで、太陽が山の木々の先に落ちかかり、陰日向の境目がぼんやり霞んでいる。そのおぼろな境目から山際まで雪が残っているわけだが、遠目では分からなかったものが、今そこにくっきりと刻まれているのを発見した――足跡である。

 この人物は、何を思いながら、どこに向かって歩いていたのだろう――トンネルの出入り口に残っていた足跡が現れた時、そんなことを考えながら自分の足を重ねていた。ここまで、歩行者にはまったく出会わず、たまに車が行き過ぎるだけで、もしかして人が歩いてはいけない道なのだろうかという過剰な不安を頭の片隅に置きながら来たわけだが、足跡という人間の歩いた確かな証拠を目の当たりにし、自分以外にもこの地を踏みしめた人がいるのだと思うと、自ずと親近感と興味がわいてくるのだった。縦横無尽に無数の足が行き交う都会では、絶対に感じえないものだ。

 しかし今現れた足跡を前にして生じた疑問は、そういう感傷的なものではない。 思わず眉をひそめる程、明らかに、異様なのだ。その下り坂を残雪の手前まで踏み入り、よく観察する。通常、人の足跡は、歩幅の具合によってある一定の間隔が開き、がに股にせよ内またにせよ、左右対称になるはずだ。一方、目の前の足跡は、その法則を完全に無視している。いや、間隔は一定なのだが、あまりに密すぎる。それぞれの間の距離はボクの手の平ほどなのだ。足は、ボクよりも大きい、つまりボクよりも背の高い人物だと推測されるが、その割に歩幅はひどく狭いことになる。靴の向きはすべて揃い、一直線に続いているので、往復したわけでもなければ、二人以上で歩いたわけでもなさそうだ。それに、右足はやや開き、左足はやや閉じ気味で、進んだ軌道を中心軸として折りたたむと、ズレが生じる。

 いずれにしても尋常ではない。一体、どういう歩き方をしたら、このような足跡ができるのだろう。

 顔を上げ、その奇妙な跡が続いていく先を確認する。小道は谷川に降りていく方と、茶畑の縁をなす方の二手に分かれ、足跡は後者の方に伸びていた。どこまで続いているのだろう。足跡に沿って行ってみようかどうか逡巡するも、やはり気が乗らず、県道を引き返して高みからもう一度確認してみることにした。視力右0.8、左0.9の両目を全力で凝らし(きっとすごい顔をしていることだろう)、その微かな雪上のくぼみをたどる。が、3本の枯れ木の重なり合う枝や茶ノ木にすぐ視界を遮られてしまった。さらに来た道を戻り角度を変えて凝視する。おそらく、その平地は鳥瞰すると柄のないしゃもじを半分にしたような形になっており、中ほどになるにつれてぐっと奥に広がるため、さらに目力を振り絞らなければ判別が難しくなる。茶ノ木の群落や木々の隙間から覗く、雪に覆われた地面はすでに道なのか畑なのか区別がつかないが、なんとなく、足跡のような直線状の窪みが辺縁に続いているようだった。ガードレールにもたれて前のめりになりながら、両手で双眼鏡のような形を作り(意味があるのかないのかは知れない)、視神経を最大に研ぎ澄ませて照準を合わせる。そして、それが行き着く先を追う。背後を車が一台通過していく。自分が不審者と思われていやしないかという雑念がよぎった瞬間、足跡がとある場所に吸い込まれるようになくなっていることに気づき、全身にぞっと寒気が走った。復路のないただ向かうだけの足跡が消えた場所——それは、青い冷たい影の中の、墓であった。

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