2. The Bluesy Creature

 ボクが今抜けたトンネルには、坑口の右の胸壁に、花のレリーフが施されている。白い五枚の花びらと大きめの黄色い蕊をもつ数輪の花が、色も形も栗のような丸い入れ物の中に咲いている図柄だ。ボクに備わっている動植物の知識は人並み以下で、当然、これが何の花であるのか、それを見ただけでは分からない。しかしヒントが、そのレリーフの横、坑口の真上に掲げられている銘板、つまりそのトンネルの名に示されていた。

「茶の里…?」

 大抵、トンネルにつけられる名称は、それが貫く山の名か地名だろう。山の名に「里」を付けることはあまり考えられないので、この辺の地名だろうか。だとしたら、古くからこの地では茶の栽培が盛んであると考えられる。そこから推測するに、このレリーフの白い花は、茶の花…だろうか。お茶といえば、静岡あるいは宇治で、茜たすきとつげの笠という格好の女性たちが一面に広がる茶畑で茶摘みをしている、という絵しか浮かばず、あのてらてらと力強く輝く緑の中にこんな真っ白い慎ましやかな花が咲くなど、いまいち想像できない。ボクはちょっと首を傾げ、釈然としないままとりあえず先に進むことにした。

 道路の向こう側に、水道施設だろうか。上部に有刺鉄線がめぐらされ、開閉部に“立入厳禁”という赤いプレートまで付けられた柵の中で、さび付いたシルバーの二基のタンクが、うんうんと低く唸りながら働き続けている。

 左手側に顔を向ける。歩道の脇で、もう一本道が合流している。トンネルの上の山林に吸い込まれるようにそれはゆるやかな上り坂になっている。おそらくトンネルが開通するまで使われていた道路だろう。両脇からじりじりとアスファルトを侵食し、一時停止の道路標示を半分食らって立ち枯れた雑草の繁茂具合からして、もう通る人や車はなさそうだ。当然トンネルの入り口側にもその脇道はあり、ボクが生まれもってしまった最も困った性質である異常な好奇心に例によって駆られたのであるが、山道にはまだ雪が厚く残って歩きにくいという事実をここまでの道程で身をもって知り、衝動以上に疲労感が勝ってくれたおかげで結局まわらずに済んだ。

 再び右手側。水道施設の横はまっさらな残雪と、おや、雪をかぶった巨大な深緑の……イモムシが一匹。ボクの足音で冬眠から目覚め、のっそりと顔をあげて様子をうかがっている……といった具合だ。その巨大なイモムシが、茶ノ木なのだろう。長さにしておよそ4メートル、高さは1メートル弱、ゆるやかな扇形に刈り込まれ、全体に残雪が乗っている。先に述べたように、初夏の強い日差しをたっぷり受けている広大な茶畑の絵しか見たことのないボクにとって、それとはかけ離れた眼前の姿がとっさに茶ノ木と結びつかず、異様なクリーチャーのように思えてしまったのだ。なぜこんなところに。こんな、日陰の暗く寒いこの場所に、たったひとりぼっちで諦観の境地にいるようなこいつから、あの和やかな風味の飲み物が果たしてできるのだろうか。できたとしても、あんまりおいしくはなさそうだ。

茶ノ木のイモムシが寝そべっているかたわらに、薄汚れたアイボリーの給水タンクがある。下半分には凍結防止のためか、藁の束を並べてひもを通した筵のようなものが巻かれており、現代的な設備に原始的な防寒具の取り合わせはなかなかユニークな格好だ。こちらはさながら腰蓑を付けた木綿豆腐である。朴訥な給水タンクの豆腐と、いつも眠たげな茶ノ木のイモムシ。横には年中無休の水道施設。そうか、茶ノ木のイモムシはひとりぼっちではないようだ。

 そのまま、道の右側を歩く。歩道があるのは左側のみで、こちらは白線とガードレールの間にわずかな幅があるだけだが、車はめったに通らないし、見通しが良いので危険はないだろう。

 それまで道路に沿ってつづいていた山林との間に、ぱっと開けた平地が現れた。雪や枯草に覆われている下はどうやら耕作地のようだが、果たして夏には豊かな作物が実るのかは知れない、荒涼たる冬野の様相を呈している。手前の方はまだらに溶け残る雪から、幾筋かの掠り書きの線のような灌木の、いびつな列が盛り上がっている。それも茶ノ木のようだが、老木か幼木かそれとも生育が悪いのか、先ほどのイモムシとはまるで違い、体液をすべて絞りつくされてしまったように萎びて痩せている。しかし奥の方にはしかと隊列を組み、覆いかぶさる雪の冷たさと重みにじっと耐えている屈強な株の一群もある。さらに進むと、眼下に広がる景色が、まさにトンネルの名の通りであることに感動を覚えた。丸々とした半月型の立派な茶ノ木の群落がどんと現れたのである。畑地に降りる道の途中に歩み入り、その景色をざっと眺める。ここまでの旅で見た中では最も広い茶畑ではあるが、それは先に述べたボクの想像の中の、丘陵地一面を緑に染める圧倒的なものではなく、山裾の限られた耕作地に、地形に合わせて列の長さや向きが整えられて植栽されている、控えめなものであった。まばらに残雪が乗ってはいるものの、すべて等しく刈り込まれた深緑の力強い直線が、ほぼ平行に端然と並んでいる様は、見ていてなかなか気持ちがいい。ただほんの少しだけ、息の詰まる気分にもなってくる。

 やっぱりボクは、先ほどのブルージーな茶ノ木のイモムシからとれたあんまり美味しくなさそうな緑茶を、飲んでみたいと思った。

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