Blowin' in the Wind
午后野たまも
1. Route XX
半月型の光に向かい、真っ直ぐな風がどっとボクを追い越していった。
県境の長いトンネルを抜けると雪国であった――なんということもなく、相変わらず片側一車線の県道がつづき、それを挟んで針葉樹が茂る、それまで来た道となんら代わり映えのしない景色が広がっていた。
ただ、日当たりの悪いトンネル出口付近の歩道には、雪が我が物顔で寝そべっているし、左手に見える背丈の低い檜の葉にも、白い塊が図々しく乗っかっている。一週間前はこの辺りも一面白銀に覆われていたのだろう。
歩道の残雪には、おそらく大人の男性のものであろう足跡が、一人分だけついている。そのひとつひとつ等間隔にまっすぐ伸びているくぼみに自分の足を重ねながら、数メートルほどざくざくと音を立てて歩いてみたが、歩道の左端の方は雪がなくなっていることに気づき、誰のとも知らぬ足跡の軌道から外れた。
足元に気を配る必要がなくなり、顔をあげる。思わず、「ほう」という間抜けな声が漏れた。
短いトンネルの入口側と出口側で、劇的な景観の変化があったわけではないが、それまで上っていた道は下り勾配になっており、県境の峠を超えたことが実感できた。その坂道は100M程一直線に伸びた先でゆるやかにカーブし、沿道には家々が点在している。その背景にはなだらかな山林が広がり、さらに奥の遥か向こうに薄青い山なみが見渡せた。
この下り坂を自転車で一気に下ったら――その様を想像し、爽快感と同時に、言いようのない不快感が泥のように胸の奥からこみあげてきた。両極端の感覚の衝突に、神経回路のブレーカーでも落ちたのか、突然、眩暈がした。
「おっと」立ち止まり、まぶたを閉じて片手で覆う。しかしそれはほんの一瞬のことで、再び目を開けたときには全くなんともなかった。
自覚している以上に、疲れているのだろう。今日は20キロ近く歩いている。しばらく景色を眺めながら、深く息を吸っては吐いてを何度か繰り返した。肺に押し込まれる異郷の空気は冷たく乾き、無表情でよそよそしい。
刻一刻と日脚は傾いて、風はさらに温度を下げたようだった。こんなところで休んでいる余裕はない。そろそろ出発しようと、最後の深呼吸をする。
「よし」
吐きだす息に伴って小さく気合のこもった声が漏れた。心の内で苦笑する。一体、何が「よし」だ。
ボクの理性は、来た道を引き返し、本来の軌道に戻れと警告している。しかしここまで来てしまったからには、明るいうちにもとの宿まで帰るのは不可能だし、この地で一夜を明かす覚悟を決めなければならない。が、果たしてこの見ず知らずの山あいの集落で、明日の着替えどころか千円札一枚とわずかな小銭にしか手持ちもない身の上で安息を得ることはできるのだろうか。千円で泊めてくれるまともな宿が存在するとは思えないので、住民に「泊めて下さい」と頭を下げなければなるまいが、見るからに胡散臭い風貌だというのは重々承知しており、わざわざ嫌な顔を向けられるためにインターフォンを鳴らせる程の強靭なメンタルも、残念ながら生まれ持っていない。無論、一週間前に降った雪がしぶとく残るようなこの地で、モッズコート一枚で野宿など、考えるだけでも身震いがする。それならば、たとえ足元も見えない、深い闇に沈んだ山道を歩くことになっても、夕餉と布団を用意して待ってくれているであろうあの山荘に今すぐ戻るのが、どう考えても最善だ。
しかし、いくら理性がそううるさく訴えたところで、ボクの両足は聞く耳持たず。孤児カレンを踊らせ続ける赤い靴のように、先へ先へと向かっていく。
結局、「なんとかなるだろう」という投げやりな、先の見えない楽観を引きずって、ここまで来てしまった。そんな腑抜けの腹の内の、一体どこから「よし」なんて声が出たというのだろう。下手すれば、行き倒れもあり得るというのに。そもそもどうして、ここまで来てしまったのか。それは、自分でもわからない。本当にこの汚れた黒いスニーカーに呪いがかけられているのかもしれない。ただ、「この先に、もう少しだけ行ってみたい」という呆れる程旺盛な好奇心が足を動かしているのは確かだ。
もう少し。もう少し行ってみよう。きっと休める場所があるはずだ。
相変わらず自分以外の歩行者はいないし、通る車もまばらである。しかし、目に映った前方の集落からは、今まで通ってきたような、打ち捨てられた辺境の地という寂しさはなく、かすかながらも光と熱とを与えてくれる蝋燭のともしびのような生気が満ちている気がしてならない。
その幻の灯りを頼りに、先へ進もうと一歩踏み出したとき、耳掛け式ヘッドホンから流れてきたのは、ローリングストーンズの『ルート66』。目の前の真っすぐ伸びる県道が、セントルイス郊外の豊かな緑の中を突っ切るマザーロードだとしたら、果たしてボクの目指すカリフォルニアは、あとどのくらいだろう。命がけでたどり着いたそこは、天国か、地獄か。
そんなのどちらでもいい。明らかにボクは東に向かっているが猶更どうでもいい。陽気で軽快なナンバーはさながら疾走するシボレー・コルベットで、まとわりつく不安や疲れなどあっという間に吹っ飛んでいく。俄然どこからともなく張りぼての活力が沸き上がり、コルベットの20分の1程のスピードで、ボクは弾むように歩き出した。
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