常磐木
常葉は、水乞いにきた里の者たちにより発見された。
八重梅の袿を羽織り、行方知れずになっていた十年以上の年月を感じさせぬ娘姿で、枯れた滝壺の底に横たわっていたらしい。
すっかり青年へと成長した弟は、神隠しに遭ったと囁かれる姉を複雑な面持ちで迎えた。
聞けば、姿を消した常葉の代わりに幼い妹を人買いの手に渡したにも関わらず、母親はあの冬を越えられずに亡くなったという。
朽ちかけた墓標代わりの板切れの前に膝をつき握る拳の震えが、独り残された彼の苦労を物語っていた。
自分たちを見捨て、身を眩ませたと思っていた姉の扱いに、弟は困惑を隠せなかった。
いなくなった当時の若さはそのままに、大きく変わった点が常葉にはある。頬や首、腕に腿、全身の至るところに、鱗のような痣が現れていたのだ。
枯れた滝の水はいっこうに戻らない。里人たちの焦燥は、竜神の祟りだとの声を大きくさせていった。常葉を贄にすべきだという意見も出はじめた、そんな折。常葉の甥が疱瘡に罹ってしまう。
常葉にとっても大切な身内だ。なんとしても助けてほしいと、神仏に祈った。すると、左腕の痣からぽろりと鱗が一枚剥がれ落ちたのである。
常葉はきらきらとした輝きを放つそれをすり潰した。弟の制止も聞かず赤子に飲ませてみると、みるみるうちに青ざめていた顔には血の気が戻り、穏やかな呼吸を取り戻す。
厄介者の姉のおこした奇跡に、両親は安堵の涙を流して感謝した。
その噂は瞬く間に広がり、万病に効く鱗を求める者が、山を越えた都からも現れるようになってしまう。
だが、どれほどの米や錦を積まれても、自然に剥がれるまで待つしかない。痛がる常葉から無理に奪おうとすれば、その者は雷に撃たれたような、激しい苦痛に襲われるのだ。
蛇憑きとまで呼ばれるようになった常葉は、里人はもとより、弟家族からもますます距離を置かれていった。
「里を出る」
日がな一日、空を見上げてはため息をついてばかりいる常葉がそう告げたとき、弟はほっとしたような表情を浮かべた。
人里から離れた山中にある小さな古寺に、常葉は隠れるように身を寄せる。
父母の菩提を弔い、消息の途絶えた妹の無事を願って経を唱える日々。雑事を手伝う傍ら、なにも訊かずに常葉を受け入れてくれた老尼僧から、文字なども教えてもらうことができた。
この期に及んで、徳を積み犯した業から逃れようなどという考えはない。
水面に顔を映しては、痣を愛おしげに撫で続ける。
ただただ、来世は孤独な竜神の側近くに存在できることを望んで……。
歳を重ねるごとに、鱗は一枚、また一枚と数を減らす。張りのあった肌は弛んで皺が刻まれ、緑の黒髪が総白髪に変わるころには、僅かに頬に残るのみとなっていた。
* * *
山の木々が色付き、やがてそれを白銀が覆う。雪解け水が地を潤すと、眠っていた木々は一斉に若葉をつける。山肌を撫でおろす風に混じる山桜の薄紅が、蝉時雨へと変わってゆく。
それを幾度繰り返しただろうか。枯れ滝にまた、桜の季節が巡ってきた。
古ぼけた堂の傍ら、かろうじて緑色とわかるぼろ布の下から小さな芽が顔を出す。山の鳥たちが囀りを止め一斉に飛び立った。
水滴が岩壁を伝ってぽたりぽたりと滝壺へ落ち、ひび割れた底の茶色を濃くしていく。徐々にそれは広がりをみせ、ほどなく落水の轟音と清水の香が辺りを包んだ。
流れ落ちる水からの飛沫が新芽を潤す。生まれたばかりの常磐木は、針のような葉を天に向けて伸ばしていった。
――春山に竜笛が鳴り渡る……
【水竜恋慕 完】
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