水竜春望

大晦日

 ザクザクザク。膝まで積もった雪山を進む音が、再び真っ白な雪の中に消えていく。


「導師様! もっと早く歩いてくださらないと、都で行われる新年の参賀に間に合いませんよ」

「そうは言うても、この老いた足腰にはちと辛い道程じゃ。ほんに、この道で合うておるのか。どんどん山深くなっておる気もするがのぅ」


 こちらが近道だと言い張る隆春たかはるに従い、麓の里からずいぶん歩いてきたが、いっこうに山は超えられない。間もなく日も完全に姿を隠すだろう。


恵照えしょう様が乞われるままに経を上げてらっしゃるから、行程がおしてしまったのですよ」


 寒さで赤くなった頬を隆春は膨らませるが、元を正せば、読経を欲していたのは彼が道すがら声を掛けた者たちばかりだ。恵照は苦笑いを浮かべた。この少年は、どうしてだか心を沈めている人によく気がつく。

 そうこうしているうちに日はとっぷりと暮れ、辺りは宵闇に包まれていく。

 この頃になると、さすがに隆春も己の誤りに気付き始めていた。


「申し訳ございません、恵照様」


 真冬の雪山に迷った者がどうなるかなど、考えなくともわかる。身を震わせているのは、寒風が突き刺さるせいだけではないだろう。

 蒼い顔でしゃがみ込んでしまった隆春の冷たい手を、恵照の皺と染みだらけの手が包んだ。


「そなたがこの山に迷い込んだのも、何かの導きやも知れぬぞ。さて、寒さをしのげる洞でも探してみようか」


 よっこらせと立ち上がった恵照に、隆春は幼子のように手を引かれ、当て所もなく雪道を進む。幸い今宵は空気が澄み、葉が落ちた梢のさらに上には満天の星が瞬いている。その光を散りばめたような雪明りで、足下には不自由しなかった。


 やがて二人は奇怪な場所に辿り着いた。

 そびえる岩肌のところどころに吹き付けられた雪塊がへばり付き、岩壁の裾には窪んだように雪が積もる。その脇にあるのは、建っているのが不思議なほど寂れた堂。


「そういえば、里の者が、山中に涸れてしまった滝があると申しておりましたっけ」


 昔むかし、麓の里を潤していた水脈が、続く日照りで痩せ細り、祀る竜神に供物を捧げたところ豊かな水量を取り戻した。だがそれも永遠には続かず、再び涸れ果てた、と。


「では、あちらには竜神様が祀られていらっしゃるのかのう」


 恵照たちは堂へと疲れ切った脚を進める。風雨に晒され傷みは激しいが、屋根と壁があるだけ幾らかはましだろう。竜神に一晩の宿をお願いすることにしたのである。

 ギギィっと軋む音を立てながら扉を開けると、雪明かりに照らされて現れた堂内は、思いの外小綺麗だった。雪が吹き込んでもいなければ、山の獣に荒らされた様子もない。

 ほっとしながら一歩足を踏み入れたとたん、ミシミシと床板が沈む。

 踏み抜かないよう慎重に先陣を勤める隆春が、薄闇に白く浮かび上がったを見つけて凍り付いた。



 * * *



 例年だと腰まで積もる雪もこの冬は僅かで、くるぶし程度までしかない。かといって暖冬というわけではなく、空っ風が吹き荒れ体温を奪う厳しい寒さだ。

 今年も辺り一帯は酷い干魃に見舞われ、ほとんどと言っていいほど収穫ができずにいた。

 この雪の様子だと、次の春の雪解け水も期待できるほどではないだろう。

 それなのに取り立てられる租は減るどころか増加され、里人の生活は困窮を極めていた。

 新年を迎えるにあたって捧げる、山の水源におわす竜神様への供物さえ用意できない有様に、里は頭を抱えていた。

 そしてついに、最後の手段を使う。


 夜明け前の山道を、白い単衣のハルを乗せた輿が進む。輿といっても戸板に棒を打ち付けただけの簡素なものだが、それでも担ぐ里の男衆の足取りは重かった。

 水の涸れた滝へ着くと輿が下ろされる。

 ハルは雪の上に裸足で立つが、不思議と冷たさを感じずにいた。


「ハルよ、本当にすまない。不甲斐ない我らを許してくれ」


 里長は俯いたまま声を震わせた。そのマメやタコだらけの手に触れて、ハルは精一杯の笑みを作る。


「長、そんなことを言わないでください。二親のいない俺をここまで育ててくれた、里のみんなに恩返しができるんです。俺は満足しています」

「……ハル」

「竜神様にお会いしたら、里のことをしっかり頼んでおきます。任せてください」


 木立の合間から遠くに見える山の稜線が白み、新年最初の陽がゆるゆると顔を覗かせ始めた。

 誰からともなく無言のうちに神事の準備が進められていく。

 白い布で目隠しをされたハルは、手を引かれ滝壺のほとりへと導かれる。うっすら雪の積もる地に正座し手を合わせていると、頭をくしゃりと撫でられた。

 その手が次から次へと入れ替わり、最後はよく知った固い大きな手が一層強く髪を掻き回す。

 麻の単衣の肩にぽたりと落ちた雫が合図となった。

 耳の間近で鈍い音を聞くやいなや、ハルの意識は真っ逆さまに暗闇へと落ちていったのである。


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