請願

 目を閉じているはずなのにくっきりと画が浮かぶのはなぜだろうか。ハルは瞳は、静かに横たわる女の人を捉えていた。

 色の白い美しいこの人が、一度も見たこともない母だとわかった。

 ハルの母親は大きなお腹を抱えてふらりと里に迷い込み、ほどなくハルを産み落としてそのまま息を引き取ったと聞いている。だからハルは、父親が誰かなどはもちろん、母の名さえ知らない。

 自分たちの暮らしさえままならなかった里人たちは、遺された、まだへその緒をつける赤子を、人買いに渡すか、山に捨ててしまおうとしていた。

 そこへ、ひとりの襤褸をまとう僧侶が通りかかる。寄り集まった人の山を掻き分け赤子の顔を覗きこんだ。


「この子には『天子の相』がでておる。大切に育てられよ」


 雲を掴むような話を皆は取り合わなかったが、里長だけは大きな手で赤子を抱き上げ頷く。


「よし、未来の天子様をうちでお預かりしよう」


 そうして赤子は、満開の山桜が咲いていた季節にちなんでハルと名付けられた。


 里の暮らし向きはいっこうに良くはならなかったが、里長は実子同様にハルを育てた。里の者たちも素直でよく働くハルを受け入れ、貧しいながらも穏やかに時は流れていった。

 しかし幾年にも及んだ天候不順は、里の命綱ともいえる水源がつくる滝をも涸れさせた。

 田畑は赤くひび割れ、日々の生活に使う水にさえ困るようになっていく。新しくやってくる年の豊穣を水の守り神に祈念したくとも、満足な供物さえ用意できずにいた。

 そんな疲弊が溜まった里人の間で、すっかり廃れていた因習が囁かれるようになるのも無理もないことかもしれない。


 ――「人身御供」を捧げよう。


 だが、いざその段になると誰もが、己の身内から差し出すことはできないと尻込みをする。

 いっこうに進まない話し合いが続いたある日、ハルは里長に「よそ者の自分が贄になる」と名乗り出た。

 里長は始めのうちはもちろん異を唱えていたが、やせ細っていく子どもたち、干上がる川の水や厳しさを増す寒さが彼の意志を蝕んでいき、ついには承諾してしまう。


「人買いに売られて生き地獄を味わうより、竜神様の元へ召された方が幸せだ」


 里の者たちも複雑な思いを抱えつつ、身内から犠牲を出さずにすんだ事に安堵し、身勝手な言い訳で自分たちの行いを正当化しようとした。

 そうしてハルは、ちっぽけな己の命が里のためになるならば、と輿に乗った。


 たった十二年ほどの短い人生が、走馬燈のように瞼の裏を駆け抜けていく。


 ――あぁ、そうだ。俺は竜神様に召されたんだ。


 頬に感じた冷たさに、ハルはのろりと重たい瞼を持ち上げる。

 ここはどこだろう。見慣れない高い天井が焦点の合わない眼に入る。

 身体を起こそうとするが、杭で打ち付けられているように重たく、ぎしぎしと音が立ちそうに凝り固まった首だけを漸う巡らせる。

 板の間に寝かされているようで、左側には手が届かないほど離れた場所に几帳が立てられていた。右手の開け放たれた妻戸の向こうには、青々と茂る草木と、薄紅の山桜の花弁が舞い落ちる様子が、まだ薄ぼんやりとする視界に映る。

 竜神様のおわす地とは常春なのだろうか。柔らかく吹き込むそよ風が、濡れていた頬を心地よく撫でていった。

 次第にはっきりしてきた視力が、こちらに背を向けて庭に立つ人影を捉える。その他を寄せ付けない玲瓏たる佇まいに、ハルは本能的に悟っていた。


「……竜神、様」


 ほとんど音にならない声が届いたのか、おもむろに振り返りハルを眇め見ると、白い玉砂利の上を滑るように歩み寄ってきた。

 高い位置から見下ろされても、身体中に痛みが走り自分の意思では指の一本も動かせない。それなのに、喉の奥からひゅーひゅーと息が漏れ、手足が勝手に震え出す。

 耳元で衣擦れの音がして、いままで嗅いだ事のない香りが鼻腔に届くと、ふいに全身を搦めていた力が解かれる。ハルは呼吸さえもが楽に感じ、何度も大きく息を吸い込んだ。


「ようやく目覚めたか」


 枕元に片膝をついて覗きこむ精悍な美貌と眼が遭い、ハルは慌てて飛び退くと板の間に額ずいて畏まる。


「しっ、失礼いたしましたっ!竜神様の御前で寝そべるなどと、ご無礼つかまつりましてございまして……あれ?」


 慣れぬ口調にへどもどしているハルを、竜神は鬱陶しげに見遣って片手をひらめかせた。


「構わぬ、吾がそこへ放ったのだ。それから普通に話せ。聞き苦しいわ」


 床に胡坐をかいた脚に片肘を乗せ頬杖をつき、下がったままのハルの頭を眺める。


「痛むところはないか? その様子では身体は問題なく動くようだな」

「はいっ……たぶん」


 たとえ痛みがあったとしても、吹き飛ぶほどに混乱している今は、分からないというのが本音だ。


「ならば、さっさとこの山を降りるがよい。早う去ね」


 大儀そうに言い捨てると、立ち上がり室を出て行こうとする竜神を、ハルが呼び止めた。


「お待ちください」  


 舌打ちし、怪訝に振り向いた竜神の顔に険が宿る。見えない圧がハルを襲うが、気力を振り絞った。


「――俺を、召し……食べてください!!」

「何を血迷うた事を申す。――まだ惚けておるのか? どうやら術が甘かったようだ。慣れぬことはするものではないな」


 ハルの前に膝を折り手を伸ばしてきた竜神の袖を掴んだ。だが、あまりにも美しく上質な絹の手触りに、すぐに手を引っ込める。


「お願いです。喰ってもらわないと、水がなくなって。このままでは里の皆が死んでしまう!」


 ハルの必死の願いにも、竜神は不愉快げにふんと鼻を鳴らしただけで取り合わない。


「気まぐれに立ち寄ってみれば、やはりそんな事か。吾がどこの水脈に棲まおうが、勝手というもの」

「ですから、こうして俺が贄として」


 縋れば縋るほど、ますます竜神の機嫌が悪くなっていくのを感じて、ハルの額に嫌な汗が浮かぶ。


「吾がいつ、人を喰らいたいなどと申した!?」


 屋敷を振るわすような怒号が響き渡り、ハルは腰を抜かしそうになるが、握った拳に力を入れて耐えた。

 口を引き結んだその様子に、呆れた竜神が嘆息する。


「だいたい娘ならまだしも、そのように筋張った童子では話にならんわ」

「子どもではありませんっ。十二になります」


 むきになって答えたハルのか細い肢体に、竜神が目を瞠った。

 肉は限界まで削げ落ち、肌は老人のようにかさついている。背丈も年相応とはとても言えない。里の食糧はもう限界にきているのだ。


女子おなごのように、肉は柔らかくはないかもしれません。でも……きっと良い出汁が取れますっ! 俺、骨には自信があるんです」

「はっ!?」


 とんでもない申し出に今度は違う意味で目を見開いた竜神を、ハルは湧き上がる畏怖を堪えしっかりと正面から見据えた。

 里のためにはここまできて引き下がるわけにいかない。

 毅然とあげた顔の痩けた頬が、唐突に大きな手で鷲づかみされた。


 ――喰われるっ!


 思わず目を閉ざす。自分から懇願した事のはずなのに、歯の根が合わずにかたかたと音を立てていた。

 だがいつまで経っても、訪れるはずの痛みはやってはこない。ハルがそっと瞼を上げると、眉根を寄せ思案の色に染まる濃紺の瞳と交わった。


「おぬし、名は?」

「――ハル、です」

「では、ハルとやら。そこまで言うならば、刻が満ちるまでここにいるが良い」


 刻とは? 訝かるハルの身体がふわりと宙に浮き、あろう事か竜神に米俵のように担がれる。重さなど全く感じていないような足取りで渡殿を進む竜神の肩で、ハルはばたばたと手足を動かした。


「え? なに? なんですか? 降ろしてくださいっ!」

「暴れるな。落とすぞ」


 落ちるでなく落っことすなのだと、妙に冷静な思考が働き、ハルは呼吸まで止めてじっとしていた。

 逆さまにされた視界には竜神の広い背中しか映らないので、どこに向かっているのはは全く予想も付かない。

 さすがに息が苦しくなった頃、もわっとする湯気が視界を埋め尽くした。

 まさか本当に鍋に入れられるのではないか。焦るハルを、竜神は躊躇いもなく放り投げた。

 派手な水音を立て湯気の発生源へと落とされると、ハルは反射的に悲鳴を上げる。


「熱っ! ……くない?」


 それどころか身体の奥からじわりと温まる温度の湯が、大きな盥のようなものに惜しげもなくなみなみと溜められたところへ放り込まれたのだと気付いた。

 単衣ごと湯に浸かり、髪から雫を滴らせて呆然とするハルに、竜神が尊大に言い放つ。


「とりあえず、その垢にまみれた薄汚い身体をなんとかしろ」


 湯殿の戸をぴしゃりと閉め、立ち去ってしまった。

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