饗応
垢まみれ……。
浴びせられた言葉に己の身体を嗅ぐ。言われてみれば、飲み水にも事欠く生活でほとんど湯浴みなどしていない。今回贄になるにあたり、皆で掻き集めた雪を溶かして身を清めたくらいで、禊さえ満足にできずにここまで来てしまった。
竜神が自分に食欲がわかないのは、身が汚れているせいだったのか。
得心がいき、置いてあった糠袋を借り、痩せた身体の隅々を肌が真っ赤になるまで擦った。
湯あたり寸前ののぼせ顔で湯から上がると、いつの間にか着替えが用意されていた。
先ほど触れた竜神の衣同様に滑らかな手触りのそれに袖を通すなど、考えるだにおこがましいが、ずぶ濡れの単衣を着て出るわけにもいかず、恐る恐る身に着ける。
皺のひとつも付けられない。ぎこちない動作で湯殿を出たところに、嫋やかな女人が控えており驚かされた。
「ハル様、ご用意した衣に不都合はございませんでしたか?」
柔らかい澄んだ声音で問われ、勢いよく首を横に振る。不都合どころか、己にはもったいなくて申し訳ないくらいだ。
「それはようございました。御膳の支度が整っております。どうぞこちらへ」
白い手でハルを誘う。
彼女の後に付きぺたりぺたりと渡殿を進みながら、自然と顔が下を向く。
御膳とは自分の事だろうか。この美しい人の細い腕が、この身を捌くというのか。もしそうなら、できれば一思いに止めを刺してからにして欲しいと伝えておいた方が良いのだろうか。
不安と疑問が交錯するハルの思考を、小春日の日向のような温かい声が遮った。
「わたし、
歩みを緩めてハルに並ぶと、常葉は花が綻ぶような微笑みを向ける。
「常葉様は、竜神様の奥方様ですか」
ふたりが並べば、さぞ華やかな夫婦だろう。当りを付け尋ねると、一瞬儚げな色が常葉の瞳に浮かぶ。
なにか気に触る事を口にしたかと焦るハルに、常葉が目の端を袖口でおさえてから応えた。
「妻だなんて、めっそうもない。わたしはただ、あの御方の瞬きにも等しいほんのひと時、お傍に置いていただいているなのです」
しかし、ただの使用人にしては竜神を語る彼女の口調は、切なくも温かく感じられる。
首を捻っていると、常葉が足を止めた室の妻戸を開けた。
「ハル様のお口に合うとよろしいのですけれど」
そう言って通された室内には幾つもの膳卓が並び、その上には料理を載せた皿が所狭しと載っている。そのどれもが贅を凝らしたものばかりで、山の幸、川の幸問わず、今の季節がいったいいつなのかわからなくなるほど多様に富んでいた。
「こ、これは……?」
目の毒になりそうなご馳走を前にして、瞬きさえ忘れて魅入ってしまう。
ハルが最後に口にしたのは、輿に乗る前。里長の細君が作ってくれた、少し塩気のある小さな握り飯一つ。それとて里の倉に僅かに残った貴重な正月用の米を使い、せめてもの手向けにと饗してくれたものだった。
ごくりと生唾を飲み込む音が、常葉に聞こえてしまったのではと心配になる。
「お好きなものがわかりませんでしたので、思いつく限りご用意してみたのですが、お嫌いなものがございまして?」
ハルの杞憂を無視して、常葉は彼を膳の真正面の円座に座らせると、飯椀に山盛りの飯をよそう。
「どうぞ、たくさん召し上がってくださいね。お代りもございますよ」
鼻先に差し出された芳しい炊きたての米の匂いに、もう我慢ができなくなった。
一口、口に運べば、あとはもう流れ作業のように、料理がハルの腹の中に収まっていく。きっと素晴らしい味なのだろうが、それもろくに感じる余裕もなく空腹を満たしていった。
そんなハルを微笑ましげに眺めていた常葉がさっと退いたかと思うと、妻戸が乱暴に開けられる。
竜神が大股でやって来て、ほとんど空になった皿を確認し満足げに頷くと、何も言わずに去ってしまった。
贄である自分にこんなに豪華な食事を摂らせて、竜神はどうするのだろう。
丸く膨れた腹を撫で、気がついた。太らせてから食べるつもりなのではないだろうか。
そう思い始めると、それから朝に晩に用意される食事の時間は複雑だ。
だが、目の前に並ぶ美食の数々を拒めるはずもなく。日に日にハルの血色は艶やかになり、伸びやかな肢体を取り戻していった。
優遇されたのは食事だけではない。
あてがわれた
手持ち無沙汰に手伝いを申し入れたハルに、常葉は読み書きを教えてくれ、竜神からだと書物もたくさん与えられた。
どれもこれもが里での生活とは縁遠かったものばかりで、初めのうちは戸惑い苦戦していたハルだったが、次第に学ぶ事の楽しさがそれを上回っていった。
竜神の屋敷は、移ろう四季が楽しめる不思議な庭に取り囲まれている。
瑞々しい葉を茂らせる木々が臨める庭に面した簀子に座り、ようやく覚えた曲を竜神に披露してみた。するとどこからやってきたのか、山鳥や野兎、猪の親子までもが耳を傾ける。
曲が終わっても動物たちは庭から動かずに散策を始めてしまう。
その様子を愛らしいと感じたハルが、ふと眉を曇らせた。
「里には水が戻ったのでしょうか」
何不自由なく過ごす生活の中で忘れかけていた心配が頭をもたげる。
この庭のように豊かな緑を、里は取り戻せたのだろうか。
「おぬしを打ち捨てた者たちを、なぜそこまで気に掛ける」
不機嫌な竜神の問いに、ハルの目は里の山を映していた。
「よそ者の俺をここまで育ててくれた恩ももちろんあります。でも、それだけじゃないんです。まだ滝の水が完全に干上がる前、あの滝のある山は本当に美しかったんですよ。春には山桜が咲き、夏はむせるほど濃い緑に溢れ、秋には紅葉で山全体が燃えたようになるんです。でも、俺が一番好きなのは、雪を被って真っ白になった山が朝日できらきらと輝く様なんです」
今よりもっと幼い頃、里の皆で揃って拝んだ
「――来い」
竜神はハルの腕を無造作に掴んで引っ立てた。
庭に降り立つと、目の前を眩しい光が覆い、ハルは思わず瞼を閉じる。
光が弱くなったのを瞼越しに感じてゆっくり目を開いたハルの前に、見たこともない生き物がその巨躯を横たわらせていた。
細長い全身は目映い白銀の鱗で覆われ、鋭い爪や角をもつ姿は、恐ろしげでもあり神々しくもある。
「……竜、神様?」
肯定するように咆哮し、竜は長い髭を生やした頭を下げた。
『乗れ』
突如ハルの頭に響いたのは、紛れもなく竜神の声だ。
「そんな、無理です」
神に跨がるなど畏れ多い。ためらい後退るハルに業を煮やした竜神は、ハルの襟首を大きな口でそっと咥えると、天高く放り投げた。
放物線を描き落下するハルを、竜はその背で受け止める。
『しっかり捕まっておれ』
急上昇を始めた竜に、言われなくてもハルは鬣を掴んだ。
目を瞑り、振り落とされないよう硬い鬣を握るハルを乗せ、竜は幾層もの雲を抜けていく。
しばらく続いていた垂直に近い状態がふいに水平になり、頬を殴りつけるようだった風が緩やかなものへと変わった。
『しかと見るが良い』
促され、ハルは恐る恐る瞼を開ける。
「これは……」
遥か眼下に小さな堂が見える。あの山の滝だった。
それはハルが最後に見た枯れ果てた姿ではなく、轟々という音が聞こえそうなほどの水量を滝壺に落とし、深い緑の森に中を清らかな水が山裾へ向かって流れている。
その川を下るように竜は空を泳ぐ。太くなっていく流れに沿って作られた田には、どこまでも続く黄金色の穂が頭を垂れて風に揺れている。
ハルが夢にまで見た光景だった。
「あぁ。ありがとうございます。やはり竜神様は、お約束を守ってくださっていたのですね」
ここへ来てからずっと肩の上にのしかかっていたものが、やっと外れたように心が軽くなる。水鏡のように凪いだ気持ちでハルは竜神に告げた。
「これで安心して竜神様に召し上がっていただけます。あっ! でも、できれば最期にもう少し下がって、里の皆が元気に暮らしているかをひと目見せてはいただけませんでしょうか」
無邪気に頼むハルの言葉に、竜が緩やかに首を振った。
『吾は人は喰わぬと再三申しただろうが。それに、あの里におぬしの知るものはもういない。おぬしが死んでから、人の世ではすでに百年近くの時が流れておるのだ』
「なにを、仰って……」
季節の移ろいがわからぬ屋敷とはいえ、ハルにそれほどの長い年月をここで過ごした感覚はない。
それに、自分が『死んで』いる?
『すでに事切れ、魂魄が離れて彷徨いかけていたおぬしを、吾が繋ぎ留めたのだ。今は輪廻の枠から外れてここにおるが、いずれその刻がくれば流れに戻る事になるだろう』
「……そう、でしたか」
いままで普通に食事をし睡眠を摂っていた自分の手を見詰める。これがこの世のものではないという実感が、ハルには全く湧いてこなかった。
それに、鬣を握る手の甲に次から次へと落ちてくる水滴は何なのだろう。死人も涙を流せるというのだろうか。
「俺は、これからどうしたら良いのでしょう」
相変わらず、竜神にはハルを食べるつもりはなさそうだ。
知人も身体も失くした自分には、帰る里もない。
『言ったであろう。その刻が訪れるまではここにおれば良い、と』
竜の声が心の耳に届いたとたん、ハルは硬い鱗の背に突っ伏す。目覚めた時に嗅いだあの清涼な香りがハルを包んだ。
その匂いを胸一杯にに吸い込むと、ハルは竜の背にしがみつき、声を上げて泣きじゃくった。
竜神は以前にも増して、ハルに様々な事を教え込んでいった。
楽や詩歌、学問に留まらず、薫物合や囲碁などにまで及び、死んだ自分になんの役に立つのかと思うようなものばかりだ。だがそれも、覚える行為が根無し草のような自分の存在を確かめる事に繋がる気がして、一心に取り組むことができた。
――。――ル。ハル……。
誰かに呼ばれた気がして目を覚ますと、傍らに竜神が並んで座っていた。笛を手に眠ってしまっていたらしい。
最近、なぜか昼間でも居眠りが多くなっていた。
「すみません。お呼びでしょうか」
「……いや。そう、笛を吹いてはくれぬか」
竜神には及ばないものの、だいぶ腕を上げたハルは快く応える。
梅が綻ぶの初春の庭に新たな春を言祝ぐ曲の音が広がると、呼応したように花びらが舞い踊る。その紅白の霞の向こうから、また声が聞こえてきた。
――ハル。ハル。ハル……
知らない声。懐かしい声。そして、初めて聞くのにとても温かく感じる優しい声。たくさんの声がハルを呼ぶ。
最後の音を奏でた笛を口から放すと、ハルの身体を春風が取り巻いた。
「ハル」
竜神が己を呼ぶ声に、首を巡らそうとした視界を霞が覆う。
「吾は、桜が山を覆う春が一番美しいと思うぞ」
少し寂しげな声が、溶けてゆく意識に混じっていった。
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