水鏡

 翌朝常葉が厨に行くと、篭いっぱいの柿や栗、山葡萄に野いちごが置かれていた。次の日にはわらびぜんまいふきとうといった山菜が、その次の朝は大きな瓜。どんなに早起きしても、常葉より先に食材が届いているのだ。おそらくは竜神からの差入れと思われる。それらを調理しては、共に膳を囲む。

 あいかわらず、竜神からは色好い評価をもらえずにいたが、それでも頃合いになるとどこからともなく現れ箸をつけるので、いうほど嫌ではないのかもしれない。

 常葉がねだらずとも、食事のあとに笛の音を披露してくれることも、次第に多くなっていった。


 そんなことが続いたある朝、桶の中でまだ尾びれを動かしている川魚をみつけた。よく肥えた鮎や山女魚に塩をふり火で炙ると、芳ばしい香りが厨の外まで漂う。

 それに誘われたのかはわからないが、珍しく竜神が厨に姿をみせた。


「おはようございます! お魚、ありがとうございました。もう少しで焼けるので、お待ちいただけますか」


 戸口から中を覗く竜神は、不審な面持ちで竹串に刺した魚を見る。


「吾の分も用意しているのか?」

「わたしはこんなにたくさん食べられません」


 魚だけではない。里では作り手の口に入ることのない米も、山では貴重な塩も、使った分が翌朝には戻っている。水瓶は底から湧いているかのように常に満たされていて、川で汲んだ水を入れた重たい桶を、幾度も往復して運ぶ必要がない。

 日が昇る前から暮れるまで身を粉にして働いても、毎日食うに困る暮らしとの差は、まさに天と地だった。

 常葉が物思いに耽っていると、くん、と竜神が鼻を鳴らす。


「いけない!」


 焦げ臭い匂いは魚のものだ。慌てた常葉は、火から遠ざけようとしてとっさに素手で焼けた串を掴む。


「熱っ」


 指先に痛みが走る。幸い冷水はすぐそこだ。水瓶に手を伸ばす。だが常葉は、水に手を浸すことができなかった。

 常葉の顔が映る鏡のような水面に、さざなみが立つ。すると自分とよく似た母親の顔が現われた。再び水面は震え、順に弟や妹を映しだす。

 息を詰めそれを見ていた常葉の目の前で、ふいに彼らの顔は消え、凪いだ水面に戻る。

 瞬きをした常葉は、竜神に握られた自分の手がそこに浸かっていることにようやく気がついた。

 熱をもっていた痛みがさっと引いてゆく。


「もう、よいのではないか」

「あ、はい。ありがとうございます」


 水からあげた指を腰布で拭った。少し赤みがあるが、たいしたことはなさそうだ。


「そうではない」


 竜神は常葉のおとがいに指をかけ、顔をあげさせる。常葉を見据える濃紺の瞳は、心の深い淵を覗くようだ。いたたまれなくなり、常葉は顔を背ける。


「人の里へ戻れ。いまなら、まだ間にあうだろう」

「……間にあいたくなくて、ここにいるのです。わたしは、逃げたんです」


 水瓶の縁いっぱいの水面が揺れ、小さな波紋を作った。



 闇夜の庭にはらはらと舞うのは、雪だろうか。それとも、春の訪れを告げる香りを放つ梅の花弁か。

 手をかざした火桶の熱は、爪の先まで凍えていた常葉を、溶かすようにじんわりと温める。


「あの日の……滝壺に落ちた日の翌日。里に人買いが来る予定でした」


 火桶を挟んで座す竜神に、常葉は己の身の上を語り始めた。


「今年の梅雨は、いつになく雨が多く苗の育ちが思わしくありませんでした。そこへきて三度もの大嵐に見舞われた里の田畑は、すべてを駄目にされてしまったのです。そのうえ、流された橋の普請に駆り出されていた父が山津波に遭い……」


 常葉の家には、数年前より体調を崩しがちな母、家を背負うにはまだ幼い弟と妹が遺されたのだ。

 秋を目前にしても田畑からの収穫が望めない。その日の食にも事欠く状態で、お上に租の減免を訴えても聞き届けられることはなく、一家は途方に暮れた。

 近隣の集落はどこも似たような状況らしく、足元を見た人買いがあちこちの里を回っているとの噂が届いたのは、そんなときだった。


「皆が冬を越すには、この身を売るしか方法がありませんでした」


 このまま里にいても厳しい冬と飢えが待つのみ。常葉は家族のために覚悟を決める。


「最後にあの滝を目に焼き付けておきたくて山に入り――竜胆をみつけました」


 四季折々に美しい姿を魅せる山奥の滝。そのほとりに立ったときに感じる、すべてを包みこんで浄化してくれるように清涼な気が好きだった。

 そして、ここは――竜神の傍はその気で満ちている。


「売られた先では、生き地獄をみると耳にしました。生きるための道を選んでも、死ぬより辛い思いをするかもしれない。わたしはそれが怖くなったのです」


 死にたかったのではない。「生きる」ために、ここに残りたかった。だがそれは、家族を見捨てることと同意である。常に罪悪感を抱えながらも、常葉は里に戻る決心がつかなかった。


「ここは噂に聞く極楽なのでしょうか」


 尋ねておいて、自嘲の笑みをもらす。

 そこは衣食に満ち足りた、常春のごとき国だという。


「わたしのような不孝者が行ける場所ではありませんね。竜神さまを謀りました」


 炭火で温かくなった手で足首をさする。痛みなど、初めての夜が明けたときには消えていた。そのことはきっと、竜神も気づいていたに違いない。それでも常葉がここに留まることを許してくれた。

 常葉は竜神の傍らまで膝を進め、そのひんやりした手をとると、己の首へと導く。


「人としてここに留まることが許されぬなら、人の生を捨てましょう。わたしをあの世に送ってくださいませ。どうか、あなたさまの手で」


 竜神の大きな手ならば、常葉の細首をひねるなど容易いだろう。しかし、あの日のように指先に力が入れられることはなかった。

 常葉は重ねてこいねがう。


「人の一生など、あなたさまにとってはほんの一瞬に思われるかもしれません。ですが、ここでの暮らしを……あなたさまと過ごした数日だけを支えに、地獄にも等しい場所で生きなければならない残りの年月は、わたしには永久よりも長く感じられるでしょう」


 それまで添えられているだけだった竜神の手が動いた。常葉の首を引き寄せる。


「だから人は疎ましい。すぐ死ぬというに、想いばかりが強くて敵わん」


 常葉はきつく眉根を寄せる竜神に笑いかけた。


「では来世があるならば、わたしは人以外のものに生まれます。鶴や亀なら、一日でも長くあなたさまのお傍にいられるかもしれません。それともいっそ、庭の小石にでもなれば万の刻をお供できましょうか」

「……それは少々困る。さすがに石では見分けが難しそうだ」


 ふ、と竜神の口元がほころんだように見えた。常葉は直衣の胸に顔を埋め、吸い込んだ清水の香りを魂に刻む。


「でしたら印をお付けくださいませ。どのような姿に生まれ変わってもみつけていただけるように」


 常葉は差し出すように首をのけ反らせると、静かに瞼をおろした。

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