孤月
厨で寝ていたはずの常葉が次に目覚めたときには、屋敷に戻っていた。竜胆があるところを見ると、おそらく初めにいた場所と同じだろう。見覚えのある袿が身体にかけられており、光を通す蔀からは暖かな風が入ってくる。
常葉は大きく伸びをすると、また袿を戻して表に出た。階の下には、草履が揃えられている。
はっとした常葉は、自分の足裏を確認して複雑に顔を歪めた。砂粒ひとつついていない、きれいなものだったからだ。
まさか、竜神が手ずから清めてくれたということはないだろう。しかしこの屋敷に来てから、彼以外の人は未だ目にしていない。
庭に降りた常葉は、桜があったほうとは逆に屋敷を回る。すると緑濃い草木の一部が、徐々に色付きはじめてきた。
見渡した限りでは、どうやらこの屋敷は山の奥深くに建っているようだが、不思議なことに、周囲を四季に彩られているらしい。
燃え盛る炎のごとき
カサ、カサ、と不規則な音が聞こえて、常葉は視線をさまよわせる。大木の枝の間を飛び回る
常葉は思い立ち、積もる枯れ葉を掻き分ける。すると造作なく、秋の味覚を探り当てることに成功した。
腰布に乗せきれないくらいに採れた茸を厨に運び、笊を掴んだその足でとってかえす。
澄み渡る青空の雪景色を抜け、梅の香に後ろ髪を引かれながら、若葉が萌える春の庭にやってきた。
地面にしゃがむと、野草を摘みはじめる。まだ若い芽はやわらかく、きっと菜飯にしたらおいしいだろう。塩漬けにしておくのもいい。
常葉は満面の笑みで、いっぱいになった笊を抱えて厨へと戻った。
二十年にも届かない常葉の人生だが、これほどの満腹を覚えたことははない。
供物の中には、人々が身を削って工面したものもあるに違いない。それを、竜神でなく自分ひとりの胃袋に収めているという後ろめたさは、飢えの記憶が薄れていくにつれ、次第に大きくなっていった。
タッタッタッ。小気味良い音をさせながら、常葉は雑巾がけをしていた。
冬の簀子から始め、右へ左へ往復し、秋から夏へと季節を遡る。
夏木立を臨みながら勾欄の手摺りを拭いていると、薫る風の中に笛の音が混じるのが聞こえて耳を澄ます。それを辿ってゆくと、春の庭に面した簀子に腰をおろし竜笛を吹く竜神をみつけた。
初めて耳にする曲だった。ゆったりと穏やかに、かと思えばときに荒々しさをみせる音色は、姿を自在に変える水のように澄んでいる。典雅な音が流れをつくり、竜となって天へと昇っていく神々しい様が、常葉の目に浮かんだ。
聴き入る常葉は、邪魔をしないように廂の几帳の陰に隠れているつもりでいたが、竜神は手を止めてしまった。
「そのようなところでなにをしておる」
妙なる音を生み出していた口が、不機嫌な声を奏でた。
「笛を聴いておりました」
慌ててからげていた裾を直し、余韻の覚めぬまま答えるが、竜神の答えは素っ気ない。
「そうか」
笛を懐にしまい立ち去ろうとした竜神が、すれ違い様に、常葉の左の二の腕を掴んだ。
「これはどうした」
「ちょうどいい端切れがみつからなかったので」
右手のぼろ布を握りしめる。継ぎはぎだらけの片袖を解き、雑巾の代わりとしていたのだ。
眉をひそめた竜神は、下衣が露わになった常葉の片腕を少々乱暴に引く。
「ついて参れ」
腕を取られたまま、常葉は竜神の後を歩いた。
御簾をくぐり、幾基もの几帳を越え行き着いたのは、仄暗い塗籠だ。明かり取りから差し込む光に、目にも鮮やかな綾錦が浮かび上がる。
「どれでも要るだけ持っていけ」
「これを掃除に使えとおっしゃるのですか!? もったいない!」
触れるのさえ気後れする衣で、床磨きなどできようはずがない。
「それでもかまわないが……」
ふるふると首を振る常葉をうろんな目つきで一瞥した竜神は、たくさんの衣裳の中から一枚を手にすると放ってよこした。それは宙でふわりと広がり、常葉を覆う。
「片袖のない衣ではしかたがなかろう。ああ、それから――」
小袖に隠れた常盤の肩に手が置かれ、視界を奪われた耳に口が寄せられる。
「衣をあらためる前に湯を使え。顔が泥だらけだ」
「え?」
衣の下で顔を拭うが、その袖も薄汚れていた。
汚れを落とし、十分に温まった常葉が湯から上がるとすっかり日は暮れており、四季の庭全体に月明かりが煌々と降り注ぐ。
厨に行き、青菜と茸を入れた粥を作る。
常葉はそれをよそいだふたつの椀を盆にのせて屋敷に戻った。
「竜神さま?」
春の簀子から呼びかける。すると、月の光が満ちる庭にその姿が浮かび上がった。
「よろしければ、召しあがっていただけませんか」
もしかしたら人とは違うものを食するのかもしれないが、常葉自身が独りきりで食事を摂ることを寂しく思えてきたのだ。
ゆっくりと簀子に近づいた竜神は、勾欄越しに椀の中身を覗きこむと眉根を寄せる。
「お庭に生えていたものを勝手に採ってしまったのですが……いけなかったでしょうか」
「いや。泥にまみれていた理由はそれだったのだな」
呆れながらも納得して肯いた竜神は、階から簀子にあがり常葉の隣に座った。
「それから、このように立派な衣までお借しいただき、ありがとうございます」
手をつき頭を下げてから、両袖を広げてみせる。千歳緑の小袖は、色白の常葉によく似合っていた。
「それはもう、そなたのものだ」
常葉から目を逸らし椀を取る。
山の幸がたっぷりと入った粥をすする竜神のごくりと動く喉もとを、常葉は固唾を呑んで見守った。
「……草だな」
竜神が苦い顔をすると、常葉は肩を落とす。
「お口に合わなかったようですね。申し訳ありません。では、御酒はいかがでしょう。古より、
瓶子に用意した酒を盃に注いで手渡した。
「それはおそらく、吾ではない」
竜神は仏頂面で盃を傾けるが、どうやらこちらは嫌いな味ではないらしい。ちろちろと舐めるように、杯を重ねていく。
常葉は椀の中の粥をゆっくりと減らしながら天を仰いだ。
虫の声さえ聞こえない静かな夜。中空に浮かぶ月は望月に近いが輪郭が朧で、まるで水面に映したかのようだった。
「竜神さまは、どれくらいここにお独りでいらっしゃるのですか」
「さて? 千か万か。数えてなどおらぬな」
酒盃を置き席を立った竜神は、夜桜の下で竜笛を構える。
気の遠くなるような歳月を過ごしてきた竜神が奏でる調べは、散りゆく桜より儚げで、天に在る月よりも孤高に感じられた。
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