季違い

 瞼を通して、やわらかな光が届く。


「朝っ!?」


 飛び起きた常葉の身体から、するりと袿が滑り落ちてた。

 見慣れぬ室礼と衣は、まだ夢の中にいるのかと見紛うほどに美しい。蔀を通り抜ける微風が黒髪や頬を撫でていく感触は、目がしっかりと覚めていることを実感させる。

 ここはどこなのか。昨夜の男は何者か。

 花に手が届いた瞬間、飛沫に濡れる苔むした岩に足を滑らせ滝壺に落ちた自分を助けてくれたようだが……と思い至り、慌てて全身を両手で確認する。

 身に着けているものは昨日と同じ衣だ。山道を歩いてきた多少の乱れと汚れはあれど、からりとした手触りには濡れた気配がない。本当に、これは夢ではないのだろうか。

 ぼんやりと巡らせた視線が、切った青竹に無造作に挿してある竜胆りんどうをみつけた。

 と、開け放たれていた妻戸から風が入る。ふわりと甘い花の香りとともに迷い込んできたのは、小さな花びら。

 目の前にゆっくりと落ちてきた薄紅色のそれが、常葉の手のひらに収まった。


「桜……?」


 季節はずれの花びらが迷い込んできた方へと顔を向けた常葉は、現われた者に目を細めた。

 表にあふれる日の光よりも煌めく白銀の髪。驚くように瞠られた瞳は、いっけん漆黒にも見えるが、深い深い瑠璃紺だ。

 常葉の知るとはあきらかに異なる容貌に、畏怖を覚える。


「まだおったのか」


 薄いくちびるが紡ぐ声は、雪解け水の冷たさを伴う。びくりと肩を揺らした常葉の手から、花びらがこぼれ落ちた。


「ここはそなたのような者がいつまでもおる所ではない。疾く去ね」


 素気なく言い放った男は、二藍の直衣の袖を翻し立ち去ろうとする。


「待って! お待ちくださいませ――竜神さま!」


 常葉に確証があったわけではない。ただ、里を潤す川の源にある滝にまつわる言い伝えは、童女の時分より幾度となく聞かされていた。そのほとりに建つ小さな堂には、水の守神である竜神が祀られている、と。

  畏れ多くも神を呼び止めようとするなど不遜極まる。だが意外にも、竜神は足を止め振り返った。


「我は神などではない」


 柳葉形の眉を歪めるさまはいかにも不服のようだが、立腹というわけではなさそうである。

 常葉は床に手をつき深く下げた。


「お願いがございます。わたくしをこちらに置いていただくわけにはまいりませんでしょうか」

「ならぬ」

「ずっとなどと図々しいことは申しません。ほんの数日でかまわないのです」


 願いを一刀両断で切り捨てられてもなお、深く頭を下げて食い下がる。


「ならぬものはならぬ」

「どうかお願いでございます!」


 踵を返す竜神に、床を這ってすがりついた常葉が、指貫の足ごと持ちあげられる。そのままふうわりとひっくり返され、袿の上に転がった。

 仰向けに晒された白い喉に、氷のような指がするりと巻き付く。


「人の世に戻りたくないとな。やはりあのまま捨て置くべきであったか」


 指先がゆっくりと肌に沈んでいき、常葉は息を求めて目も口も大きく開いた。その瞳には、眉ひとつ動かさずに冷徹な表情で己を縊ろうとしている竜神の顔が映る。


「……い。…き、……たい」


 霞みゆく視界。途切れかける意識の中、常葉は喘ぎながら震える手を宙に伸ばした。指先に吸いつくような肌をもつに顔に辿り着くと、思いっきり爪をたて、押し退けようとする。けれども、竜神は力を弱めることはない。


「短き生をも全うする気がないのであろう? 望みどおり冥途へ送ってやろうではないか。それとも喰ろうてしまおうか」


 昏さを増す視界の中、薄ら笑みを刷いた紅い口だけがくっきりと浮かんだ。いっそう食い込む指に、頚骨が軋み瞼が落ちる。

 常葉は最期の力を振り絞り、生にすがるように掴んでいた手で竜神の頬を引き掻いた。


 のしかかっていた大きな身体が、常葉の上から退く。とたんに肺腑の奥にまで空気がなだれ込む。常葉は肩を荒く上下させ、息を身体中に送った。


「死に、たくなんか……ない」


 ふらつきながらも起き上がり、光の戻った眼で訴える。

 竜神は頬に走った紅い線を手の甲で拭って目を細めた。

 息を整えている間に、常葉がつけた傷は跡形もなく消えていった。


「ならばなおさら、ここはそなたのいるべきところではない」


 竜神の手が再び常葉へと伸びてくる。

 とっさに目を瞑り身体を強張らせた常葉は、頭の上にかすかな重みを感じた。


 その感覚は、乱れた髪に沿ってゆっくりと降りてくる。盗み見るように薄く瞼を開けてみれば、すくい上げた一筋の髪に、竜神が顔を寄せているところだった。


「なにをっ!?」


 思わず常葉が身を引くと、長い指の間をさらりと長い髪がすり抜けていく。


「いっ!」


 小さな痛みを覚えた頭を押さえ、困惑と非難に揺れる瞳で竜神を見据える。口の端をあげる竜神の手には、指に絡まった黒髪が数本取り残されていた。


「受けた苦痛に怒るだけの執着がその身にあるならば、なぜ戻りたくないと申すのだ」


 髪を残したままの手を、そのまますうっと戸口へと向ける。


「さあ、そなたが生きるべき世へ帰るがよい」


 竜神は再三にわたって促す。だが常葉は膝の上に両手で拳をつくって首を振った。


「……帰れません」

「なにゆえ?」


 片手を開き己の右の足首をなでる。


「足を。落ちたときに、足を傷めたようなのです。これでは山を下りることができません」


 不審げな面持ちで伸ばされた竜神の手から足をかばうと、常葉は床に手をつきもう一度頭を下げた。


「お願いにございます。せめてこの足が善くなるまでの間、ここにいることをお許しください」


 どのくらいそうしていただろうか。

 やがて常葉の頭の先を衣の裾がかすめ、呆れたような嘆息が落とされる。


「……勝手にしろ」


「ありがとうございます!」


 立ち去っていく気配が消えるまで、常葉は面を伏せ続けた。


 下敷きにしていた袿を衣架にかける。あらためてみても、紅梅色の衣は上等の品だ。

 うっとり眺めていた常葉の視界を小さな薄紅がかすめる。八重梅の織紋様から散るように舞い落ちたのは、先ほどの花びらだろう。

 桜にしろ梅にしろ、現在とはほど遠い季節であることに違いない。

 常葉は簀子へ続く御簾をくぐった。

 表に出てみると、白石が敷き詰められた前庭の向こうに濃い緑の木々が茂る。その葉を揺らす清々しい風に乗って、また花びらがやってきた。

 風上を目指し、簀子伝いに屋敷を回る。

 角を曲がったところで、常葉の足は自然と速くなる。階から降り立った庭には、満開の山桜。


「どうして今ごろ?」


 はらはらと花びらが舞う中、枝を見上げていた常葉の視界が、突然揺らいだ。


「……足はどうした」


「え?」


 耳元で問う低い声は竜神のものだ。常葉は今、その腕に抱えられていた。宙に浮く裸足の両足が目に入る。


「すみませんっ! ちゃんと洗ってから上がりますから」

「そうではない。痛めておるのだろう?」

「あ……。い、痛い……です、ちょっとだけ」


 腕の中で縮こまる。それが刺激になったのか、常葉の腹の虫が盛大に鳴き声をあげた。とたん、竜神の吹き出した息がかかる。

 驚いて顔を上げると、深い水の底にいるような色をした瞳が、常葉を見下ろしていた。


「腹まで減らすようでは、殺しても死にそうもないな」


 目を弓なりにし、声を出して笑う。豪快な笑い声に合わせ腕が揺れるので、小さな悲鳴をあげた常葉は思わず竜神の首にしがみつく。するとそのまま、竜神は歩き始めてしまった。


「自分で歩けます。降ろしてくださいませ」


 か細い抗議は、桜の花と広い背に流した銀色の髪を散らす風にかき消されてしまう。


 その風がにわかに冷たくなってくる。ふと目を天に向けると、白く舞うのは花びらでなく雪だ。

 頬に舞い降りた六花の欠片にぶるりと震わせた常葉の身体を、竜神は寒風から守るように深く抱いた。


 季節を逆行するように、玉砂利を踏む音が雪を踏みしめるものへと変わる。やがて竜神は小さな雑舎に入り、常葉を降ろした。

 そこはくりやのようで、大きな瓶に清水がなみなみと注がれている。台の上には米に粟などの五穀がのり、酒や塩、醤も揃う。


「どれもこれも吾には不要なもの。好きなように使え」


 自分で飯を炊き空腹を補え、ということらしい。

 包丁の刃には一点の曇りなく、うずたかく積まれた薪を備えた竈は、一度も使われた様子がない。


「竜神さまはお食事を召し上がらないのですか」


 戸口から出て行こうとする背に声をかける。


「摂らぬこともないが……」


 竜神は振り返り、ぐるりとくちびるを長い舌でねぶった。その禍々しいまでの赤さに、常葉は里に語り継がれている祭祀を思い出す。

 ――万が一にも恵みの源である滝が枯れた際は、竜神さまに人身御供を捧げよ。


『……喰ろうてしまおうか』


 脳裏に竜神の声がこだまする。息苦しさを感じた常葉の手は、無意識に自分の首をさすっていた。

 そんな彼女の様子に竜神は薄ら笑いを浮かべる。


「安んじるがいい。人など生臭くて泥臭くて、とても喰えたものではないわ」


 袖を翻すと、小雪の舞う外へと行ってしまった。

 残された常葉は、両腕で自分の身体を抱きしめた。真冬のような気温だけのせいだけではない寒気を追い出すため、竈に火を入れる。乾いた薪はよく燃え、冷えた手足にも温かさが戻ってくると、食欲もよみがえった。

 これらの食物は供物だろうか。だがいくらかの罪悪感は、山を成す穀物の誘惑には勝てなかった。

 鍋を火にかけている間、ときおり外を覗く。粒の大きくなった雪が、辺りを白く染めあげていた。重い鈍色の空は、雪雲なのか夜が近いのかわからない。

 ここでは、季節どころか刻の感覚さえ失いそうだった。 


 身体が温まり、粟粥で腹がくちくなると眠気が襲う。

 積もった雪が音を消す静けさの中で、常葉は薪の束にもたれかかり、心地好い眠りについた。

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