竜胆
水の音がしていた。
雨だろうか。だとしたら、ずいぶんな大雨だ。
――滝の音。
常葉は、里に流れる川の源である、山深い滝を訪れていたはずだった。
そこで岩肌に
そうだった。開花の季節にはやや早く、たった一輪だけ花を付けたそれに手を延ばして――。
身じろいだ瞬間、常葉の右足首に激痛が走って息が詰まる。一旦痛みを自覚してしまうと、その箇所が燃えるように熱く感じられた。
痛みか熱かもわからなくなるほどの傷があるのだろうか。確認しようにも、身体中に痛みが飛び火したようで起き上がるどころか、目を開けることさえできずにいた。
痛みと不安から、上下の瞼の隙間にじわりと涙が滲む。
「ほう。目覚めたか」
常葉の耳が水音以外の低い音を拾う。さわさわとした衣擦れは、間近で止まった。同時に清水の香りが常葉を包む。滝壺のほとりに立ったときと同じ、清涼な気が満ちていく。
氷が溶けるように、身体のこわばりが解れていくのを感じた。
けれども、睫毛を震わせながら薄く開けられた双眸に映るのは、月のない夜のような闇ばかり。あれからどれほどの時が経っているのだろうと考えて、常葉はようやく違和感に気づいた。
背にあたる感触は固い。だが、地面などのそれとは異なる。だらりと身体の両脇に投げ出した手に伝わる冷たさから、板の間に寝かされているとわかった。
「こ……こ、こは……」
まだぼんやりとした視野の外にいるはずの衣擦れの主に問う。
掠れ声が届いたのか、さわりと空気が動いた。常葉を覗き込むように大きな影が覆い被さる。水の気配がより濃くなった。
渇いた唇が、無意識に水気を求めてゆるりと開く。そこへ、ひと粒の小さくまあるいものが乗せられる。ふるふると唇の上で震える危うさに、常葉は思わず口の中に収めてしまった。
正体不明のそれが舌の上で弾ける。とろりと蜜が口腔に広がり、滑らかに喉を降りていく。桃に似た芳醇な香りが鼻を抜けた。
「……おい……しい」
砂地に染みこむように、甘ったるい味と香りが身の内に行き渡る。身体が潤いを取り戻すと同時に、雫が押し出されるように眦から溢れた。
「涙するくらいならば、入水などするな」
「そんなこと、していま……っ」
起きあがろうとした常葉の足が、再び痛みを訴える。わずかに浮いた頭を床に戻し、ふうと息をついた。
「まあ、どちらでもよい。夜が明けたら、人の世に戻れ」
ぶっきらぼうな声を残し、衣擦れが遠ざかっていく。ぽっかりと広がる暗い闇に吸い込まれるように男の気配は消え、再び辺りを包む静けさは、すべての刻が止まったかと錯覚させる。
深い水底にいるような静寂に、常葉の意識も沈んでいった。
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