水竜幻想

浪岡茗子

水竜恋慕

空蝉 

 降り注ぐ蝉時雨。深緑の隙間から覗く青。岩場で揺れる山百合の白。あの日となにも変わっていない。

 ただ、干上がり薄茶の底を晒す滝壺以外は……。


 ほとりに膝をつき、山道に疲弊し激しく脈を打つ胸を押さえた。かずいていた衣が滑り落ちる。遠のくとこのない痛みをこらえ、水気も生気も失せた指で左頬に触れた。

 のぞきこんでも、その顔を映す水はない。しかしそこにある痣が見えているかのように、指先は正確に縁を辿る。

 幾百、幾千、幾万と繰り返してきた仕草は、身体がとうに覚えていた。


「ようやく、お預かりしたこの命、お返しすることができそうです」


 頬を伝った滴がひび割れた地に落ちて、瞬く間にしみていく。

 あがったまま治まらない息に、胸の奥から湿った咳がでた。口にあてた袖が紅に染まる。

 ふうと吐いた息とともに、きらめく破片が枯れた滝壺に落ちていった。

 鉛のような足を引きずり、枯れ滝の全容が見渡せる木陰に辿り着く。杉の幹に背を預けて深く息を吸いこめば、胸の奥まで清涼な気に満たされ、少しだけ呼吸が楽になる。

 痩せ細った身体は、顔に止まった虫を払うのも面倒なほど重い。


 やがて持ち上げていることさえも億劫になった瞼は、ゆっくりと閉じられた。

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