帰れなかった場所
十がいくつも重なるほどの分かれ道を越えた。
人の街は夜闇の中でも、目に障るほど明るい。
それでも見つからぬように気を張り、人のいない場所を選んで動く。少しでも手がかりになる何かを探して。
気がつけば月が空高く昇っていた。
……周辺でも一際高い、細長い建物の影で立ち止まる。
口を少し上げてやると、そっとユチが顔を出して、また引っ込める。
――だめか。
何度も何度もこれを繰り返した。
しばらく見ないうちに、人の街は己の想像の何倍も大きく、複雑になっていた。正直なところ、これがいくつ目の人間の街なのかすら、己には判別できないのだ。
己には無理なのか。
考えがよぎる。
だが、どの人間に託せば、ユチを救えるのか己にはまったくわからないのだ。
せめて、ユチの知る者のところへ――
そう祈って、もう何度目かもわからない目立つもの、その白くて大きな建物の前で脚を止め、ユチに顔を出させる。
「あ……」
わずかに声をあげたユチの、きっと何倍も己は驚いた。
『手がかり』だ。
鼻で深く息をしながら、ゆっくり左右の道を見る。
ユチは、左を向いた時に、ぎゅっと己の牙を掴んだ。
慎重に、慎重に、足を進ませる。
余人に見つからないように、というのも一つだが、見つけたそれを失わないように、という意識だった。
ユチは迷わず一つの道を示し続けた。何度か道を曲がって、そこに着く。
周囲の建物と比べると老朽化しているように思われる、人が何人も住んでいる建物のようだった。
入り口からはまともに入れそうもなかったので、横に回る。塀に囲まれた建物だが、塀と部屋の間にはそこそこのスペースがあり、窓から各部屋の様子は窺えた。
その一室に近付くにつれ、ユチの緊張が高まるのは否応なく感じ取っていた。
「ぎゃははははは!」
「だぁーらこいつ、マジ馬鹿! ほんっと馬鹿だよねー!」
板に映る映像?を見て、男と女の声が聴こえる。
理由は明確にできないが、その声色だけで、己は爪を地面に食い込ませていた。
「おかあさん……」
ユチが小さく呟いた。
それが聞ければ、己の爪に価値はなく、迷うこともない。
己の姿が人間に見られれば、何らかの追求、あるいは交戦もありうるだろう。だが、それでも良い。
ここにユチを返す以上のことはないのだ。
己は、脚を進めて窓に身体を押し当てる。ご、とそう大きくはない音がした。
「あ? 何か音し、ぃぅわあああああ!!?」
「何!? な、ひぃっ、ひうぁぁぁぁ!!」
窓のほうに振り向いた男と女が、座っていた椅子から転がり落ちる。
「なっ何あれ猪!? 熊!?」
「熊でもあんな大きいのいねえだろお!?」
ウゥ、と低く唸って見せてから、口を開けてユチを地面に下ろす。
ユチは飛び出して行かない。手足に力が入っていないのか、うつむいたまま、手足を投げ出して座っている。
「……ユチ!?」
「え?」
女、おそらく母がユチの名を呼んだ。
ユチはびくりとして、頭はあげられないまま、足を組み替えて正座をした。
「ユチ、ちゃんって、え、嘘? 実家に預けてるって言ってたじゃん。すぐ見つかったから、って…」
男の言葉に、母である女は、チ、と舌打ちをする。
「……見つかってなかったよ」
「……え」
「お前がぁ! 山の中にあのガキ放り出してからぁ! 帰ってきてなかったっつってんの!」
ぱくぱくと男が口を開閉する。
「ち、ちげーじゃん。言ったのお前じゃん! 言うこと聞かないガキは山に捨てるって、車出せって言ったのお前じゃん!」
「スマホの電波がどうのって、放り出してから道戻ったのお前だろーが!」
「お前だって『もう一周回してから』って、5分も10分も……!」
がん、と己の頭を強く窓に打ち付けた。完全に露出した爪は、ユチの細腕よりも明らかに太い。
「お、俺は関係ないからな。そもそもその子とは何の関係もないんだ、血のつながってないチビの世話なんて、俺の役割じゃないからな!」
男が部屋から逃げ出した。
「……ははっ、ははははっ、はははははははは!」
女は、狂ったように笑う。
「なんなのお前ェ!? あんのクソ詐欺野郎に騙されてさぁ、産みたくもないのに産まされてさぁ!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ユチは、震えて泣いていた。
「クソ野郎は逃げる、実家は助けないどころか馬鹿にしてくる、一人でつまんねえ仕事して、遊ぶ時間も金も全部無理して仕方なくお前のために使ってやってたのによぉ! 昔からずぅっと言うことも聞かずに、次から次から手間かけさせてさぁ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「挙句の果てにこぉんな化け物連れてきてェ!? どうして欲しいわけお前、なあ!?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「………いいよ、許すよ」
火が消えるように、女の声が小さくなる。
「今なら、勝手にどっか行ってたのも許してやるよ。さっさと帰ってきな」
「あ……」
がく、っとユチが体勢を崩す。
(ユチ……)
「あ、ああ……あぁぁ……」
立とうとして、立てず、這い蹲ろうとしても、腕すら身体を支えられずに崩れ落ちて。
「――さっさとしろよ!」
「あ、あああああああ!! ああああああああああああああ!!!」
(ユチ!)
己は動いた。
ユチの視界を塞ぐように、前に躍り出て、後ろ足で窓に蹴りを入れる。加減はしたが、窓全体に亀裂が走った。
「あぁ、あぁぁぁあああ!」
吼えるユチを口に咥えると、家に背を向けて走り始める。
***
残された女は、呆然と立ちすくんでいた。
感情を爆発させて、もうどうでもいいという気持ちでいっぱいだった。
インターホンが鳴る。
女は特に考えることもなく、生気の抜けた顔で、来客に応じた。
「すみません、児童相談所の者です。ここ何日か、こちらの子どもさんの姿が見られないと匿名の通報がありまして――」
***
「うぁ、あ、あぁぁぁぁ……けもの、さ、けものさん……」
(………)
歯を噛み締めるとユチを圧迫してしまうため、自分の舌を噛んだ。
「ユチ、ユチね、やっぱり。やっぱり、食べて欲しい。けものさんといっしょがいい。こわいの、いやぁ、いやぁ……!」
(ユチ、己は……)
ひどいやつだ。
とにかくあの家から離れなければと駆け、ようやく足の動きを緩める。やってきたのは、先ほどの白い建物だ。
口から下ろすと、ユチは己にしがみついて泣いた。声が漏れないように、黒い毛皮がすべて飲み込んでくれるように、泣いた。
己はと言えば、考えていた。
ユチ。
お前の願いは叶えてやれない。
ユチ。
お前に安全を保証もできない。
”獣”のよく利く鼻は、この建物に怪我人や病人が多いことに気付いていた。そして、ここがおそらくは彼らの治療をするための建物であることも。
己は、泣き腫らしたユチの頬に顔を寄せる。
「んぷぁ。けもの、さん……?」
何度も何度も顔をすり寄せ、願いを込める。
「ふへ、あはぁ……けものさん…」
わずかながら、ユチに笑顔が戻ったのを見て、腹をくくる。
す、とユチの身体を押しやると、己は――一息に走り出した。
「えっ」
間の抜けた声。
すぐに、置いていかれることに気付いたユチが泣き叫ぶ。
「やだっ、やだ、やだぁぁぁぁぁ!! けも、あ、け……」
……賢い子だ。
すでにかなり離れたとは言え、己を呼ぶことが、己の迷惑になると頭が回ったのだろう。
「あぁぁぁぁぁぁ……あぁぁああああああああ!!!!」
どうしてこんなに聡い子が、苦しまなければならなかったのか。
泣かせるとわかっていて、そしてその声すら届かないところまで、早々に逃げた己もまた、同罪だ。
どうか、この後は泣かずにいられる日々であってほしい。
幸せなら手を叩こうと笑った、あの時のままで――
元気に、生きてほしい。
***
「まあ病院ですし、そういう話はいくらでもありますけど」
「いやこれはほんと、聴こえるって……って、本当にいる、子ども!」
「入院患者ですか!? 見覚えないな、入院着でもないし……大丈夫、お嬢ちゃん、お名前言える?」
「ドクター呼んでくる! すみませーん、ドクター!」
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