1320年 母との別れ
南方大陸南部港町コリューネ
この日、コリューネの街から少し離れた位置にある小さい丘の上にある小さいものの綺麗な家に多くの人が集まっていた。
「ごめんなさいウェンディ、私のお世話をさせてしまって」
元々それほど身体が強くなかったルドベキアはこの年南方大陸で発生した流行病に冒されて病床に伏しており、2年前の技術発表会を訪れたことを機にコリューネでルドベキアの世話役として移住していたウェンディに対してルドベキアが謝罪の言葉を漏らす。
「そんな、私は光栄なんですよルドベキア様のお世話ができるなんて今この時で私だけなんですから。それに病は気からとも言いますし、そんな弱気は病に付け入られてしまいますよ」
「……えぇ、そうね」
ウェンディは励ます言葉をかけるが、ルドベキアの衰弱は進んでおり強い回復の異能力を持った専門家でも南方大陸の地以外でなければ治療は不可能なまでに進行していた。
ルドベキア自身も含め全員がそのことを理解していたが、何一つ文句も愚痴もこぼさず、ベッドの上という点を除き今までの変わらぬ日常を感じさせていた。
しかし、その日常は唐突に終わりを告げる。
「ではルドベキア様、私は花瓶の水を変えてきますね」
「えぇウェンディ気をつけて……」
ルドベキアの言葉がそこから続かなかった。
流行病の特徴である強く連続した咳込みを起こし、ウェンディは慌てて振り返るとルドベキアの横たわるベッドのシーツが赤く染まり出しているのを見てしまった。
「ルドベキア様!」
慌てて駆け寄るウェンディの叫びのような声を聴いてか、部屋の中にトーマスが入ってくる。
「どうした!」
「トム!ルドベキア様が!」
「スウォンはどうしたんだよ!」
「わからない、今日も朝から出かけていたから……」
「あのバカ!ウェンディはルドベキア様を頼む!」
「トムは……」
「スウォンを連れてくる!」
トーマスはルドベキアが療養している家を飛び出すと急いでメクリスの構える研究室へと走る。
スウォンがメクリスを師事して以降、基本的スウォンはメクリスの研究室に入り浸っていた。
トーマスとしては確信があったわけではないが、最もスウォンが居る確率が高い場所を真っ先に目指したのは、仮にそこにスウォンがいなかったとしても何かしら居場所のヒントが得られる可能性も高いし、まだ来ていないだけであるのならばメクリスと共にスウォンを探す人手を確保できるから真っ先に向かっただけ。
「スウォンは居るか!?」
コリューネの郊外に存在しているため、ルドベキアの療養地からそれほど離れていないのも、真っ先にここを目指した理由ではある。むしろ今のトーマスにはそれほど細かい思考ができずにいたのだから、ここに向かったのは必然だろう。
「ど、どうしたのですかトーマス君」
トーマスの思いとは裏腹に、研究室にはその建物の主であるメクリスの姿しか確認できない。
「ルドベキア様が!」
ルドベキアに恩があると言っていたメクリスにとって、トーマスのその言葉だけで全てを察するに値するものであった。
「スウォン君は今街に買い物に出ています、場所はいつものルート。私はルドベキア様の元に向かって少しでもお力になりますのでトーマス君お願いします」
それだけトーマスに言うとメクリスは信じられない速さでルドベキアの元に走っていき、トーマスもメクリスなら任せられるし、いつものルートというのも何度も手伝っていたので把握していた。
ただスウォンがいつ買い物に出ていったのかというのがわからない以上、買い物ルートを辿るだけではすれ違ってしまうのは確実。
「くそ、いつものルートだから……逆ならこっちだ!」
トーマスは独り言で自分の行動を確認してから走りだす。
二個ほど角を曲がるとちょうどスウォンと鉢合わせ……。
「な、びっくりした。どうしたんだよトム」
「俺のことはどうでもいい!早くルドベキア様のところに行け!」
鉢合わせたタイミングで尻餅をついていたトーマスに向かって慌てたスウォンに対しトーマスは要件だけを簡潔に伝える。
勿論そのトーマスの短い言葉だけでスウォンは全てを察するものの、足を止めて俯いてしまう。
「僕はどんな顔で母様と会えばいい、母様は僕のせいで南方大陸まで来ることになって、他の大陸なら異能力で治せるって言われてる流行病で今……完全に僕が原因じゃないか!」
スウォンは幼い頃から抱き、今その溜まりたまったものをトーマスにぶちまけた。
「知るか、俺だって親を失うなんて経験なんかないし、スウォンじゃねぇからお前がどれだけの思いをしてきたのかなんて見当違いの察ししかできねぇよ。ただな、お前はルドベキア様……母様を一人で逝かせるつもりなのか」
「そんなこと!……でも本当にどんな顔をすればいいかわからないんだ、笑えばいいのか、泣けばいいのか……」
「それこそ本当に知らねぇよ。ルドベキア様を前にして、お前が自然に出た表情と感情でいいんじゃないか。それが例え笑顔だろうが泣き顔だろうがルドベキア様は優しく微笑んでくれるさ」
しかしそれが最後の別れとなる。
その事実が未だスウォンの足を止めるだけの理由となり足かせとして彼の足を動かせないほどのものであった。
「スウォン、ルドベキア様を本当の一人にするのは……」
「うん、わかった……行くよ。うまくできるかはわからないけれど」
「親子が会うのにうまくもなにもないだろ、よし、急ぐぞ!」
決意を固めた二人は走る。
普段ではすぐに息を切らせてしまうような速度で、足がもつれそうになりかけながらも療養所に到着すると、ルドベキアのお世話をしているはずのウェンディが家の外で泣いていて、ティムもウェンディを慰めながらも涙目になっていた。
「……スウォン、家に入るのはお前だけだ」
「トム……」
「一緒に入っていってもどうせメクリス先生に追い出されるだろうからさ、行ってこいよ。俺たちは外で泣くさ」
「……うん、ありがと」
トーマスの言葉に礼を述べながらスウォンは一人で家の中に入ると、メクリスとウェル夫妻が落胆した表情で立っており、三人がスウォンに気づくと。
「ルドベキア様の傍に居てあげてください、それがルドベキア様の望みです」
「うん、メクリス先生……ありがとうございます」
スウォンは三人に見送られる形でルドベキアの居る二階へと上がり、ドアをノックして入る。
「戻りました、母様」
部屋に入ったスウォンが見た母の姿は、枕元とシーツを赤く汚してしまいながら、呼吸が弱っているものであった。
「おかえりなさいスウォン、顔を見せて」
今まで聴いてきた母の声の中でも一際弱々しい声で、スウォンは一瞬躊躇い、涙を流しそうになりつつもルドベキアの傍へと近寄り、顔を見せる。
「スウォンは今日も元気そう」
「母様……」
「泣かないでスウォン、私は貴方と一緒に笑顔で暮らせて幸せだったのだから」
そう言ってルドベキアはスウォンの頬を触る。
「貴方にはたくさんのお友達がいるわ」
「うん」
「トーマスは頼りになる子だけど、危なっかしいところがあるから注意してあげて」
「はい」
「ティムには優しくしてあげなさい」
「はい」
「ウェンディにはもっと女の子らしくするようにと」
「はい」
「困ったことがあったらメクリス先生とトーマスの両親を頼りなさい」
「……はい」
「それと……貴方の弟と妹、あの子たちには本当にすまないことをしたと、いつか会う日が訪れたら伝えて」
「…………はい」
「スウォン、もう一度顔をよく見せて」
「はい」
「最後に……スウォン、私は貴方の母で幸せ、でしたよ」
「かあ……さま?」
スウォンに最後の力で思いを伝えたルドベキアの手はスウォンの頬を離れ、力なくベッドの上へと下ろされて、スウォンの呼びかけにはもう、答えなかった。
痩せた胸も既に呼吸をしていないのがわかるほど静かで、スウォンは母ルドベキアが既に他界したことを認識すると、頬を一筋の涙が流れ……。
「皆に知らせないと」
一度目を閉じ、再び開いたときには涙を流すことはなかった。
スウォンは階下に降り、メクリスとウェル夫妻が家の中に居ないことを確認すると外に出て、そこに居る人たちに向かい。
「母ルドベキアは旅立ちました、ここにあるのは母の亡骸だけですが皆様挨拶をしていってください」
この日、スウォンとその周辺の人々は各々の思いを抱きつつ、涙したという。
そしてこのルドベキアの死は、執拗に命を狙い続けた北方貴族が原因であるとし、ルドベキアの両親をはじめとする西方貴族による経済制裁が行われることとなり、翌年から北方大陸は存続を危ぶまれるほどの事態に陥るのであった。
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