第40話 起死回生
しばらくして、みぞれは立ち上がった。
「壁は消えたよ」
町娘は刀を一度、片手で横なぎに振った。当たるものはない。
「なるほど」
しかし町娘は近付いてこない。
「みぞれ、おいで」
笑顔で少女を呼んだ。みぞれはゆっくりとした足取りで、町娘に向かって歩いて行く。孫一郎は止めようとしたが、ナギサは倒れ、雪姫は亡霊のように立ち尽くしている。この状態では身動きが取れない。
みぞれは町娘の前に立った。
「よく来たね」
町娘はみぞれの頭に手を伸ばし、愛おしげにそっとなでた。
「本当……よく来てくれたね」
突然、その手が鷲の爪の如く、みぞれの髪をつかんだ。そして力任せに左右に振る。
「痛い!」
「そりゃあ痛いよ。痛くしてるんだから」
町娘は泣き叫ぶみぞれを振り回しながら、満面の笑みを浮かべている。
「おまえのおかげで私の配下は、たったこれだけになってしまった。何もかもメチャクチャだ。少しくらい報いを受けてもらわなきゃ、不公平ってもんだろう」
「おい、やめろ」
たまらず孫一郎が刀を手に立ち上がった。だが孫一郎と町娘の間に、さっきまで後ろにいた四人の影が立ちはだかる。
「もう良いよ。そいつらは要らない」
そしてその言葉を告げた。
「殺せ」
ぶん。孫一郎の頭の上で、羽虫が飛んだような音がした。目には見えない死神の鎌が、四人の影の首を狩った。
服部竜胆の身体は、ほぼ自動的に動いた。みぞれを放し、刀を立てた。姿なき
だが竜胆は生き残った。地面を転げ、頭の手ぬぐいは落ち、まとめた髪がざんばらになりはしたが、大きな怪我もなく立ち上がった。そこに。
「てやあああっ!」
相手の小柄な侍が、上段から斬りかかってきた。竜胆は右手で刀を振り、受ける。だが押し込まれた。一歩二歩下がりながら、
「なるほど、力はある」
竜胆は歯を見せ、つばぜり合いに持ち込んだ。
「刀も良い物を使っている。だけど」
くるりと回って身をかわし、バランスを崩した侍の腹を蹴り飛ばす。
「筋がまったく悪い」
侍は一つ二つ咳をしながら立ち上がった。
「そんな事は百も承知です」
「おまえじゃ無理だよ。私には勝てない。でも私を押し込んだご褒美だ。このまま逃げるなら、命だけは助けてやろう」
「要らぬ世話です!」
下段から斬り込んだその刀を、竜胆は一歩下がるだけでかわした。そして、立ち尽くすみぞれを見つめる。
「さっきの術は、そう何度も使えないのだろう?」
身を震わすみぞれに、竜胆は微笑みかけた。
「おまえは正直だね」
そしてその足は、法師と雪姫に向かった。
「りゃあああっ!」
背後から斬りかかる侍に、一瞥もくれずに身をかわす。
「うるさいハエだ」
竜胆は切っ先を侍に向けた。
「自分の愚かさと無力さを恨みながら死ね」
その全身が突きの姿勢に入ったとき。竜胆の刀が突然、左に振られた。固い音を立てて、小石が三つ地面に落ちた。そして竜胆は見た。侍の隣に見覚えのある人影が立っているのを。今日は覆面をしていない。だが、あいつだ。
風を感じた。気付いたときには人影が隣に立っていた。それがいったい誰なのか、孫一郎が理解するのに数秒の時間を要した。
「……おまえは甚六、何故ここに」
「あんたにゃ言いたい事が山ほどある」
甚六は腰を落とし、
「だが話は後だ。今は構えろ」
孫一郎も改めて刀を構えた。
「学ばないねえ」
町娘はからからと笑う。命のやりとりをしているような緊迫感はまるでない。
「二対一じゃ勝てないって、まだわからないのか」
「そういうのは勝ってから言え」
甚六の言葉は負け惜しみである。だがそれが町娘の気分を害したらしい。
「だったら、今度は逃げるなよな!」
そう叫びながら、大上段に構え走り出した。その顔に向けて甚六がつぶてを投げる。町娘は刀を振り下ろし弾く。それを見て孫一郎は上から斬りかかる。振り下ろした腕を再び持ち上げるより、自分の刀が相手に届く方が先だ。そう信じた渾身の一撃。しかし。町娘の刀はレの字を書くように跳ね上がり、孫一郎の刃を受け止めた。
「こういう刀の使い方をするヤツを、見た事があるんだ」
町娘の顔に浮かぶ笑みは悪夢の如し。
「くっ!」
孫一郎は押した。腕の力なら互角。こうなったら力で相手の刀を封じるまで。そうすれば甚六が何とかしてくれる。しかしその思惑は、あっさり退けられた。
「ああっ」
町娘は体をかわして足払いをかけ、孫一郎は盛大に転んだ。その背中に斬りつけようと刀を振り上げた町娘に、甚六がつぶてを投げる。町娘は当たり前のように、つぶてを弾いた。しかし。そのつぶてから、もうもうと立ち上る煙。町娘は笑った。
「煙玉か。こんな物が目くらましになるとでも……」
その声は跳ね上がった。
竜胆は高く飛び上がった。街道から外れ、草むらに降り立つ。左脚を見た。着物が裂け、血が流れている。
「誰だ」
煙の中をにらみつけた。そこから現れる人影。それをいつだったか、竜胆は遠くから見た事があった。
拡散し、晴れていく煙の中から現れた姿を見て、孫一郎は思わず声を上げた。
「海塚さま、どうして」
渋い顔の海塚信三郎が、刀を片手に立っている。海塚は甚六を横目で見やった。
「そこの人に呼ばれたんですよ、あなた方が危ないと。まったく、迷惑な話です」
そう、孫一郎たちが貝塚を出てすぐ、怪しい動きを察知した甚六が、海塚に急を知らせたのだ。
「なあるほど、煙玉は合図だったんだ」
町娘が笑っている。
「後ろから足を狙ったんだ。二人じゃ勝てないから三人で。なかなか小
「私はお武家じゃないのでね、正々堂々なんて馬鹿な事は考えないんです。いけませんか」
海塚は逆手に握った刀をだらんとぶら下げた。町娘は首を振る。
「いやあ、良いんじゃないかな。私は好きだよ、そういうの」
そして刀を肩に乗せ、腰を落とす。
「腹は立つけどな!」
町娘は真っ直ぐに海塚に向けて走った。横なぎの一閃。海塚は両手で柄を握り、受ける。しかし一歩押し込まれた。甚六がつぶてを投げるが、町娘は顔をそらしただけでよける。だが体勢は崩れた。そこに孫一郎の突きが入る。さすがにこれは飛び
すかさず海塚が前に出る。逆手に握った刀で足を狙う。町娘は下段に構えてそれを受ける。二本の刀が交差した。そのとき。町娘の刀が、海塚の刀の刃の上を、つーっと滑り落ちた。前のめりにバランスを崩したその横を、海塚は風の速さで駆け抜けた。町娘の右脚から血が吹き出る。だが浅い。刃が届く寸前に身体をひねったのだ。そこに飛び込む孫一郎の一刀。
「せいやあああっ!」
上段から振り下ろされた、必殺の一撃。町娘は両手で刀の柄を握り受け止めた。しかしこれはさすがに受け止めきれない。二歩、三歩と下がる。
勢いに任せて孫一郎は押す。町娘としては、また軽やかに身をかわしたいところ。けれど両脚の傷がそれを許さない。下がりながら町娘は、突如孫一郎の手首を取った。同時にその身体が沈んだ。行き場を失った孫一郎の勢いが上半身を前方に落とす。下から町娘の足が突き上げた。孫一郎の身体が宙を舞う。いわゆる巴投げである。
仰向けに地面に叩きつけられる孫一郎を背に、町娘は立ち上がり、懐から拳ほどの大きさの玉を取り出して足下に投げつけた。音と共に玉は破裂し、もうもうと煙が上がる。その物凄い量は甚六の煙玉など比べものにならない。
「いけない、みぞれが!」
孫一郎が身を起こし叫ぶ。しかし周囲は煙に覆われ、みぞれの姿は見えない。そこに一陣の風が吹いた。煙が流れて行く。薄れていく灰色の世界に浮かび上がる影が一つ。かがみ込んだナギサが、みぞれを抱きしめていた。
だが、町娘と雪姫の姿は何処にもなかった。
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