第41話 井戸端

【顕如の日記】


天正十一年十二月三十一日


 寺内町からは人の賑わいが消えてしまった。聞けば岸和田の町も同様だという話だ。みな戦を恐れているのだろう。噂通りなら、根来雑賀が大挙して岸和田を襲うという事である。雑賀衆の鉄砲の威力は、私が一番知っている。大坂の戦では、本当に頼りになった。そして根来の行人の強さも良く知っている。根来雑賀の一揆衆は、今となっては随一の一揆であろう。正面切って戦えば、勝てない大名も多々あるはずだ。


 だがそれでも、秀吉公の勢力には遠く及ばない。なのに今、秀吉公を刺激するのはどういう訳だ。根来にも雑賀にも、あるいは粉河や高野山にも、それぞれ秀吉公と因縁があるのは知っている。しかし今このとき、岸和田を襲う理由がわからない。もしや誰かに焚きつけられたか。だとするなら、やはり徳川殿だろうか。


 堀村の辺りで鉄砲の音が聞こえたという話も伝わっている。ああ、胃が痛い。


 ◆ ◆ ◆




 水のニオイがする。目を開ける前にナギサはそう思った。目を開くと、もう日が傾いているらしく、周囲は薄暗くなっていた。自分は横になっているようだ。視界の真正面を雲が流れて行く。


「あ……」


 声を出してみた。喉が痛むかとも思ったが、それはないようだ。


「法師殿、目が覚めましたか」


 孫一郎の顔が見えた。隣にみぞれの顔もある。


「……ここは」


「堀村の井戸端を借りましてね」


 ナギサの問いに海塚の声が答えた。


村長むらおさは年に何度か卜半斎さまの所に顔を出す人ですから、話が早くて助かりました」


 ナギサは上半身を起こした。すかさず孫一郎が背中に手を回す。


「ピクシー、私の身体の状態は」


 つぶやくナギサの視界の隅で緑色のこびとが踊る。


「首の周囲に擦過傷がある。あとは短時間の酸欠によって脳が多少のダメージを受けているけど、すでに回復している。総合的には大きな問題はないと言えるね」


「了解」


「大丈夫?」


 みぞれが心配げにのぞき込む。ナギサはおでこをコツンと当てて、「大丈夫」と言った。


 井戸から少し離れた場所で焚き火が燃えている。孫一郎はナギサを近くに連れて行った。その火をつついているのは、ナギサの知らない青年。


「法師殿、ちょっと待っていてくだされ。今、たきぎを増やしますので」


 孫一郎が立ち上がろうとすると、先に青年が立ち上がった。


「いいよ、俺が持ってくるから、あんたは火に当たってろ」


「いや、だが甚六」


「あんた古川の当主になるんだろ。いい加減、人の使い方を覚えろよ」


「……すまん」


 その孫一郎の一言に、甚六と呼ばれた青年は切れた。


「あんたに謝られたくはねえんだよ!」


 そして大股で薪の方に向かった。


「孫一郎の知り合いなの?」


 甚六の背中を横目に見ながら、ナギサはたずねた。孫一郎はうなずく。


「それがしの家で働いている者です。旅の途中、ずっと陰から護っていてくれたようで。あの者の父親を含めて仲間が三人、この和泉国で亡くなったそうです」


「そっか、それで」


「……それがしは、周りに不幸をバラ撒いているのですね」


 そうつぶやく孫一郎の頭頂部に、ナギサはチョップを入れた。


「あて」


「そういう考え方、直した方が良いよ」


「そうら見ろ」


 甚六は孫一郎から少し離れて座った。そして仏頂面で薪を一本火に投げ込むと、こう言った。


「誰だってそう思うんだよ。いつまでもウジウジしやがって」


 孫一郎は不思議そうな顔で、首をかしげた。


「いつまでも……もしかして甚六は、椿の事で怒っているのか?」


 甚六が怒りの形相を浮かべたとき。


「お武家さまは大変ですね。他人を使うとか使われるとか、面倒臭い話です」


 海塚が火に近付いて来た。


「海塚さまも本願寺で使われているではないですか」


 孫一郎はそう言いながら、ふと気付いた。


「そう言えば海塚さま、お家に戻らなくて良いのですか」


「先ほど村の人に使いを頼みました。一日二日戻らなくても問題ないですよ」


「ですが卜半斎さまが」


「あの方は融通が利きますので、何とかするでしょう。そんな事よりも」


 海塚はみぞれを見つめた。みぞれはナギサの隣で、うつむいて座っている。


「そろそろ教えてくれても良いんじゃないですか。あの化け物じみたお嬢さんは何者なんです。知ってるのでしょう」


 一同の視線がみぞれに注がれる。ナギサは手を伸ばし、みぞれの肩を抱いた。


「……竜胆。服部竜胆。服部半蔵の娘」


 みぞれの言葉に、時間の流れが止まったかのような、しばしの静寂。火がパチリと音を立てた。


「服部ですか。これはまた、こんな田舎にえらい大物が出てきたものですね」


 さしもの海塚も、驚いたような呆れたような顔を見せた。


「忍びの元締めかよ。そりゃあ俺たちじゃ敵わない訳だ」


 甚六もうめくような声を上げた。


「でもその服部が、どうしてみぞれを」


 孫一郎の問いに、みぞれは指先を火に向けた。すると。


 火が大きくなる。どんどん大きくなる。そして突然上に伸びた。高く高く伸び、火柱となった。やがて巨大な火柱はうねりだし、その先端に口が開いた。牙を並べた大きな口が、天を飲み込まんばかりに開いた。ついに火柱は龍となり、夕焼け空高く、踊るように駆け上っていった。


「……今のは、幻?」


 みぞれ以外の一同が唖然と空を見上げる中、孫一郎が何とか声を出した。みぞれはその問いには答えず、こう言った。


「他にもイロイロできる。遠くのものを見たり、先々の事を言い当てたり。だからみぞれはさらわれた。だから徳川家康の所に連れて行かれる事になった」


「ああ、もう良いです。もう充分」


 海塚の言葉がみぞれの口を止めた。


「これは無理ですね。私たちの手には負えません。家康とか秀吉とかが出てきたら、もうお手上げです」


「ですが、海塚さま」


「お黙りなさい」


 海塚の厳しい声に孫一郎は押し黙った。


「良いですか、世の中にはできる事とできない事があります。頑張れば何でもできるなどというのは世迷い言です。たとえばあなたの家は会津の蘆名家の御家中ですよね。もしあなたがここで頑張ったせいで、蘆名家が徳川家康の恨みを買ったらどうします。あなたにどうにかできると本当に思いますか」


「思いません」


 孫一郎は即答した。


「それならば」


「ですが」


 孫一郎は続けた。


「それがしにとって、蘆名のお家は大事ですが、お家だけが大事なのではありません。他にも大事なものはあります。そのどちらかのために、もう一方を諦めるなど、それがしにはできません。それに」


 孫一郎の頬を涙が伝う。甚六は目をそらした。


「今ここで諦めたら、それがしは二度と妹に顔向けができません。それは死ぬよりつらい事です」


「死んだ者に忠義立てですか。お武家さまの考えそうな事ですね。馬鹿馬鹿しい」


 海塚は呆れたようにため息をついたが、それ以上何も言わなかった。



 しばらくして日の落ちた頃、焚き火をつつきながら甚六が言った。


「当面の問題は、あのお姫さまをどうやって捜すかじゃないのか。まさか放っておく訳にも行かんのだろう?」


「それなら何とかなると思う」


 ナギサが答えた。そして小さくつぶやく。


「ピクシー、発信器は」


 緑色のこびとは楽しそうに踊る。


「まだ反応は生きている。どうやら岸和田にいるようだと言えるね」

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