第七章 天正十一年十二月二十五日

第26話 渚にて

【顕如の日記】


天正十一年十二月二十五日


 雪は降りそうにない。でも少し鬱陶しい天気だ。今日は雪姫さまの引っ越しであるという。私も迎えに出ようかと思ったのだが、卜半斎が首を縦に振らない。「挨拶不要だからいつも通り仕事をしていろ」と言うのだ。私は使用人か。ちょっとは大事に扱え。本願寺顕如って、結構偉いんだぞ。


 ◆ ◆ ◆




 雲は湧いているが、さほど暗くはない。雪も降らず風も強くない。冬らしい空の下、早朝から雪姫の引っ越しが行われた。岸和田城から紀州街道を南に、輿こしに乗る雪姫の前後に荷物を運ぶ者たちが並び、さらにその前後には護衛が並ぶ。


 なるべく目立たぬようにと早朝に出発したにも関わらず、沿道には見物人が立ち並んだ。もしここを根来雑賀勢に攻められたら。そんな中村一氏の心配を余所に、引っ越し行列は粛々と街道を進んだ。


 貝塚寺内町は、根来雑賀の付け城の並ぶ近木川近辺よりはまだ北側、すなわち岸和田寄りであり、根来雑賀の勢力圏内ではない。それに根来寺は本願寺とは友好関係にあるし、雑賀には一向宗の門徒も多い。そして寺内町を統べる卜半斎は根来寺出身であり、今も根来寺との関係は深い。


 つまり根来雑賀の一揆勢にとっては、貝塚寺内町は破壊すべき敵対勢力ではないのだ。そう考えれば、岸和田城に置いておくより貝塚寺内町にいる方が、雪姫としては安全であるとも言えるのだが、だから一氏に心配するなというのは無理な相談であった。


 しかし結果的には何事も起きず、雪姫は無事に貝塚寺内町に到着した。これといった歓迎もなく、卜半斎の出迎えを受けただけの、質素な本願寺入りであった。




 昼過ぎ、ナギサは一人岸和田の浜に座っていた。


 先般の夜間の襲撃を受けて、岸和田城からも村に医者を派遣したのだが、その絶対数が足りずに、いまだ治療を受けられていない住民がいる。現場に赴いて、医者たちの手助けをしてくれまいか。岸和田城主中村一氏から卜半斎了珍を通じて、そういう依頼があったのだ。さすがにこれを断る訳にも行くまい。


 とは言え、ナギサに医療の心得はない。全身各部に隠された小型デバイスをピクシーに連携させる事で、目の前の相手の病気や怪我の様子を判断できるというだけだ。


「やけど重傷、薬と包帯! 煙吸い込み軽傷、飲み薬! 足骨折重傷、添え木! 擦過傷軽傷、放置! 刀傷重傷、急所に近いから絶対安静!」


 などなど、次々に患者を判別していく。医者たちは最初、意味がわからないという顔をしていたが、やがて字面でナギサの意図をくみ、それに従い治療の計画を立てていった。


 こうして午前中に一通りの患者を振り分けたナギサは、午後にはすっかりヒマになり、冬の海を眺めていた。風が冷たい。だが、子供たちは平気な顔で遊んでいる。なるほど子供は風の子だ。


「ねえ、結局私はタイムスリップしたの」


 ナギサはピクシーにたずねた。緑色のこびとは視界の隅で楽しげに踊る。こいつも風の子か。


「タイムスリップしているかどうかは、タイムパラドックスが発生しているかどうかで確定される。この場における観測だけでは、確定のしようがないと言えるね。ただ」


「ただ、何」


「ボルシェヴィキ博士の実験は、タイムトラベルを実行するものではなかった。あくまでも並行世界の実在を確認し、証明するためのものだった」


「それはわかってるけど」


「ならば、実験は成功したと見るべきではないか。すなわちこの世界は、我々の暮らしていた日本の過去であると考えるより、時間軸の違う、時間の流れる速度の違う、まだ安土桃山時代にまでしか達していない異世界であると考えた方が合理的なのではないか、我々はパラレルワールドに到達したのだと考えるべきなのではないか、とは言えるね」


 ナギサは薄青い空を見上げた。小さな雲が流れていく。


「ここが並行世界である可能性って、どのくらいあるの」


「それは僕にはわからない。元々居た世界との対比が必要になるのだろうけれど、何を基準に比較するかというデータは、僕の中にはないからね。ボルシェヴィキ博士ならわかるのかも知れないとは言えるね」


 ナギサは途方に暮れた。博士を探さなければ話が進まないのは理解できる。しかしどうやって探す。ここが異世界の地球だと仮定して、その大きさがまったく変わらないとしても、歩いて世界を探し回るには広すぎる。


 ナギサが考え込んでいるとき、浜で遊んでいた子供たちの間に、ちょっとした騒ぎが起きていた。


「何だこれ」


「何? 何?」


「おい、誰か大人呼んでこい」


 年長らしい子供の声に、別の子供がナギサを指さした。


「馬鹿、村の大人だよ。早く呼んでこい」


 何か差し迫った問題でも起きているのだろうか。気になったナギサは子供たちに近付いて行った。


「どうした? 何かあったの?」


 用心深そうな年長の子供は、ナギサを信用している訳ではない、と表情と態度で示しながらも波打ち際を指さした。


「変なタコが居る」


 そこに居たのは、いやあったのは、にびいろの輝きを放つ楕円体に、八本腕の生えた機械。半分ほど砂に埋まっているが間違いない、オクタゴンのドローンポッドである。ナギサは視界の隅のピクシーにたずねた。


「これ、生きてるの」


「生きてはいるね」


 ピクシーも興味深そうに眺めている。


「でもオクタゴンからの信号を受け取れなくなって、時間が経っているみたいだ。休眠状態に入っていると言えるね」


「オクタゴンが無事かどうか、判断できる材料にはならないか」


「これひとつでは判断出来ないね。ただキミたち人間の言う『常識』に照らし合わせるなら、オクタゴンはこのドローンポッドよりも、はるかに頑丈だ。ドローンポッドが生き残っているなら、オクタゴンが生き残っている可能性は高いと言えるね」


 そうこうしているうちに、村の大人たちがドローンポッドの周りに集まってきた。さすがに生き物でないと思ってはいるものの、正体がわからず、しきりに首を傾げている。


 ナギサは静かにその場を離れた。ドローンポッドには亜空転移に耐えられる強度がある。この時代の技術では破壊できないだろう。後で聞いた話によれば、地元の寺に奉納されたという事だった。

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