第五章 天正十一年十二月二十三日
第22話 刀鍛冶
朝は良く晴れていた。まだ太陽は出ていないが、星がきれいだ。空気はしんしんと冷え込んでいる。宣教師と共連れの二人は紀州街道を南に向かった。
「今日ハ
「有名な寺なのですか」
忠善は、眠気など微塵も見せずに提灯を持って先を行く。朱色の着物と白袴を纏うこの希代の剣士には、隙というものがまるでなかった。
「山深クニアル古イ寺デス。カナリノ勢力ヲ持ッテイルト聞キマス。見テオイテ損ハナイデショウ」
六衞門は相変わらず黙々と最後尾をついてくる。まあ死体なのだから、黙っているのは当たり前なのだが。
「しかし、岸和田城からの使いを待たなくて良いのですか」
その忠善の言葉に、宣教師は憤然と顔を上げた。
「何故我々ガ、待タネバナラナイノデスカ。待タセレバ良イノデス」
「……司祭さま、意固地になってますね」
「意固地ト違イマス。コレハ駆ケ引キデス」
「なら良いのですが」
山脈側の空が、うっすらと白んできた。もうじき提灯も要らなくなるだろう。だが、水間寺までどれくらい時間がかかるのか読めない。帰り道が暗くなる事も考えられる。ロウソクは棄てずに持っておこう。ロウソク高いしな。忠善は、そんな事を考えながら歩いていた。
◆ ◆ ◆
【顕如の日記】
天正十一年十二月二十三日
昨日、岸和田城に伴天連が招かれたらしい。もしや中村殿に取り入って、この和泉で布教でも考えているのだろうか。危機感を覚える。何らかの対策を打たねばなるまい。なのに卜半斎は私の言う事になど耳を貸さない。門徒がキリシタンに鞍替えしたらどうするつもりなのだ。まったく頼りない。
ああ、卜半斎と言えば、この間の旅人のために、何か一筆書いたらしいのだが、何故そういうのを私の方に回さないかな。私にまかせれば、もっと威厳のある凄い格好良いヤツ書いたのに。気の利かない男だ。
◆ ◆ ◆
「帰れ」
けんもほろろとは、この事だろう。孫一郎とナギサと少女は、海塚に連れられて、昼過ぎに貝塚寺内町を出た。たどり着いたそこは海に近く、すぐそばの砂浜に漁師の舟が上がっている村の一角。痛いほどに冷たい海風が吹きすさぶ中、津田村の刀鍛冶の元を訪れた孫一郎たちに、刀工の頭領が言い放ったのが、この一言であった。
あばら屋とまで言うほど酷くはないが、決して経済的に豊かとは思えない、板葺き屋根の建物の前で、一歩たりとも中に入れないという意図を体現すべく、頭領は戸の前に立ち塞がった。内側からは
「卜半斎さまからの紹介でもダメですか」
海塚が差し出した書状を受け取ろうともせず、頭領は首を横に振った。
「ぼっかんさんには世話になってるが、これはダメだな。鍛冶場はガキの遊び場じゃない。
「感じ悪っ」
ボソッとつぶやいたナギサを、頭領がにらみつける。耳は良いのかも知れない。
「怪我の心配なら要りません」
一呼吸置いた孫一郎の言葉に、頭領は怪訝な顔を見せた。しかし孫一郎は笑顔で続ける。
「それがしの家も刀鍛冶です。鍛冶場に何があるのかは知っております。決して、ご心配をおかけするような事は致しません」
「へっ、家が刀鍛冶だと。何て名前の鍛冶屋だ」
それは嘲笑というべき笑い顔。しかし孫一郎は毅然と答えた。
「会津の古川と申します」
「知らんな、そんな田舎の鍛冶屋なんぞ……」
そう言いかけて、頭領の表情が固まった。
「いや、ちょっと待て。会津の古川って、もしかして、古川
「はい、うちの一族は代々兼定を名乗っております」
その言葉に、頭領の目の色が変わる。
「え、それじゃ、もしかして、もしかしてその腰の刀は」
孫一郎の腰の物をさす指が震えている。それを見ながら孫一郎は笑顔を返した。
「ええ、
「うおおおおっ! ちょっと、ちょっとだけ見せてくれない、か、くれませんか」
さっきまでの見下すような態度は何処へやら、頭領の目は孫一郎の顔と刀とを行ったり来たりしている。孫一郎は勿体ぶる事すらせず、腰の刀を鞘ごと抜き、ポンと手渡した。
「はい、どうぞ」
自分で見せろと言いながら、頭領の顔からは血の気が引いていた。この寒いのに汗をかいている。
「これか、この
「良いですけど、それであの、鍛冶場は」
すると突然、頭領は振り返り、鍛冶場の戸を引き開けたかと思うと、中に向かって声を張り上げた。
「おうてめえら! 客人だ! もし失礼な事してみやがれ、ブチ殺すからそう思え!」
そして孫一郎たちを手招いた。
「ささ、どうぞお入りください」
「はあ」
刀工たちは呆然としている。まあそりゃそうだろう。申し訳なさげに孫一郎は鍛冶場に足を踏み入れた。外からは頭領の声が響いてくる。
「うおおおおっ! この刃紋! この
鍛冶場には特別な物はなかった。ふいごで炭を
打っている刀はおそらく数打物――つまりは大量生産の廉価品――であろう。それもこの時代、当たり前だ。その当たり前の事実を当たり前として確認する事に意味がある。会津の鍛冶場にある道具も、こことまったく同じである。当たり前の鍛冶場なのだ。
だが会津兼定が打ち出す刀は、当たり前の刀ではない。天下に名の通った銘刀である。何故そんな事ができるのか、それを知らねばならない。それが理解できなければ、孫一郎には『兼定』は継げないからだ。
この当たり前の鍛冶場に、もしかして当たり前でない物がないだろうか。孫一郎は目を皿のようにして探した。けれど見つからない。やはりここも普通の鍛冶場なのだ。少し意気消沈した孫一郎に、海塚が話しかけた。
「あなた和泉守だったのですか」
海塚が孫一郎に興味を持ったのは、初めてではなかろうか。孫一郎は慌てて手を振る。
「いえ、別に和泉国に領地があったとか、そういうんじゃないですよ。ただ先祖が一代限りでそういう名前をもらったっていうだけです。でもまあ、それがあって和泉国に行ってみたいと思った訳ですけど」
「へえ、お武家はよくわかりませんね」
「はは、かも知れません」
ナギサと少女が金床に近付き過ぎたので、慌てて引っ張り戻す。大鎚の可動域に立っていると、殴られる危険性があるからだ。二人に厳重に言い聞かせて、孫一郎は海塚の隣に戻ってきた。
「ところで海塚さまは、何処かに仕官なされたりはしないのですか」
孫一郎の問いに、海塚はギョッとした。
「しませんよ。所詮地侍は地侍、お武家になどなりたいとも思いません」
「もしかして、武家が嫌いなのですか」
「何故嫌いじゃないと思ったのです」
「だって、あんなに凄い腕前をしているのに」
「あんなものは我流も良いところです。あれで飯を食おうなどと思うほど、無謀でも世間知らずでもありません」
「我流では食えないのですか」
思わず口をついて出たその言葉は、孫一郎の包み隠さぬ本心であった。我流の何が悪いのだ。強い剣が振るえるのなら、我流でも良いのではないのか。美しい刀が打てるのなら、我流でも構わないのではないのか。しかし海塚は即答した。
「食えませんね」
そしてため息をつくと、諭すようにこう言った。
「武芸であれ何であれ、飯が食いたいのなら他人に教える事です。教えられれば飯は食えます。しかし教えるためには、そのための技や
つまり教育のためには体系的な技術と理論と、その言語化が重要という事だ。聞くとはなしに会話を聞いていたナギサであったが、海塚をちょっと見直した。ただの嫌みったらしいオヤジではないようだ。
鎚音が重く響く。赤く焼けた鉄が形を変えていく。口を利けぬ少女は魅入られたようにそれを見つめていた。
「だけどさ」
ナギサは会話に割って入った。
「そこまでわかってるんなら、侍になった方が得なんじゃないの、逆に」
「何が逆なのか良くわかりませんが、武家になど、なりたくはありません」
海塚は首を振る。しかしナギサには納得がいかない。
「何でそこまで嫌がるの」
「だって、つまらないじゃないですか」
この答には、さすがに虚を突かれた。ナギサも孫一郎も、しばし言葉が出てこない。
「……えーっと、そういうもんなの?」
首を傾げるナギサに、海塚は呆れたような顔でこう言った。
「戦国の世はもうすぐ終わります。羽柴か徳川かは知りませんが、誰かが天下を平定するでしょう。そうなれば武家の天下になります。でもね、武家の天下とは、武家が好き勝手できる世の中という訳ではないのですよ」
「そうなのですか」
孫一郎も意外そうだ。
「
ナギサは思う。何もできないとは、何ができない事を意味しているのだろう。権力を持っているからこそ、自由にできる物事も多いはずなのだが、海塚の言いたいのは、そういう事ではないらしい。
「では生涯、地侍を続けるおつもりですか」
孫一郎の問いに、海塚はこう答えた。
「地侍など、すぐに居なくなります」
「えっ」
「あちこちの大名が刀狩りをしているのです。知りませんか。天下が平定されれば、村にある刀や鉄砲は取り上げられるのですよ。刀のない地侍など、百姓と何が違うのですか」
それは歴史的に正しいと言えるね。ナギサの脳にピクシーが伝える。
「では海塚さまは百姓になるのですね」
孫一郎は少し残念そうだ。だが。
「いいえ、私は町人になります。好き勝手に生きたいですから」
海塚の言葉に、孫一郎はまた絶句。ナギサは思わず突っ込んだ。
「町人なら好き勝手に生きられるっていうの」
「今はまだ無理ですよ。でも見ていてごらんなさい、いつか町人がのさばる時代がやってきます。銭さえあれば、誰でも好き勝手に生きられる世の中になるのです」
海塚の目がらんらんと輝いている。さしものナギサも舌を巻いた。この海塚という男、いったい何が見えているのだろう。教養があるとかないとかのレベルではない。生まれる時代と場所を間違っているのではないか。
鎚の音は響いている。少女もまだ見入っているが、頭領が孫一郎に刀を返しに来た。そろそろ鍛冶場を出る頃合いだろうか。だが頭領から茶に誘われた。ナンパではない。お点前を披露する、あの茶である。こんな所に茶室なんてあるのかとナギサは
自分が暮らしていた時代の社会に比べれば、何事にも
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