第9話 戦いは密の味

 ピロロロ、ピロロロ。

 二回目のコール音で健斗けんと応答おうとうをスワイプする。

 あやういところだった。三回目に間に合わなければ、彦島ひこしまのどんな嫌がらせに合うかわかったものじゃない。

 彦島に厳重注意をされてから、何回かの呼び出しに模範的に応えて下っ端と思われる宇宙人を捕獲して、何とか彦島のご機嫌も取れてきた今日この頃。

 会議室に移送されて、健斗はずぶ濡れの体にバスタオル一枚、という出で立ちで彦島を見上げる。酒屋で働いているだけあって腕の筋肉が見事に隆起している。

「健斗、会長をにらむんじゃない」

 横からおタケさんに注意されて、健斗は胸をらして誇らしげに微笑ほほえんだ。

「ちゃんと三回までに取りましたよ。でも、この呼び出しって、所かまわずですか」

 酒屋さかやバイトでかいた大量の汗と美月の自主練に付き合って更にかいた汗をシャワーで流していたところである。

「ああ。すまないな。地球を救うのにあれこれ構ってはいられないというものだろう?」

 彦島は高い場所にあるデスクから健斗を相変わらず見下ろして言った。

「それで?こっちに呼び出したってことは、新人がいきなり行ったら、なんか不味いんでよね?」

 健斗の砕けた物言いに、彦島が微笑んだ。

「わかってきたな、健斗。今回の敵は電力を喰う宇宙人だ。発電所に居座って、どんどんエネルギーを喰っている。対抗手段は電力ストップか、というところで我々にSOSがきた。いかに電力を止めずに敵を葬るかが勝負だ」

「電気系の宇宙人には電気銃、ですよね?」

 だんだん不安になってきて、健斗は念を押すように問う。彦島がふふ、と小さく笑った。

「?」

 健斗はますます不安を大きくする。

「濡れていると感電かんでんするかな?」

 彦島が楽しそうに言う。

「いやいや、それ、危険思想ですよ」

 健斗は突っ込みを入れながら、彦島の考えていることが想像できて怖くなる。危うく感電死させられるところだ。

「彦島さん、Sですよね?」

 何となく言うと、彦島は意味ありげに微笑んだ。ゾッとして健斗は目をらす。

「それで、俺はどうしたら?出動ですか、待機ですか」

 健斗は気を取り直して尋ねる。

「そうだな、まずは待て、だ」

 彦島の蠱惑的こわく悪魔あくまの微笑みを前に健斗は背筋せすじふるえるのを感じる。

「何かたくらんでますね?」

「政府のお偉いさんに、一泡吹ひとあわふかせてやる。ついでに電気代も只にさせてやろう」

 彼の小さな呟きを、不幸にも聞き取ってしまった健斗は空をあおいだ。

「平和が一番」

 祈るような調子で呟いて、健斗は彦島を見た。

 彼は浮き浮きと鼻歌を歌いだしそうな雰囲気で健斗に背を向ける。

 石黒が気遣うように健斗を見て、彦島の後を追っていった。

 健斗はおタケさんからバスローブを受け取り、とりあえず羽織ると、彼に連れられて研究室のドアをくぐった。他の研究室と違って、応接のソファや整理ダンスなんかもあり、ちょっとしたホテルの部屋のようだ。どうやらここは偉い人用の研究室のようだ。おタケさんの肩書は、化学分析班班長、というだけではないらしい。

「あんまりうらまないでやってくれよ。会長、このところ忙しさに拍車はくしゃがかかって、まともに寝てないんじゃないかな。諸外国の高官は会長に心酔しているから思うように操れるらしいんだが、日本の政治家ってのは馬鹿が多いだろう?それで面倒ごとが増えてるんだってさ。会長の機嫌損ねたら日本は消えてなくなるのにな」

 気楽に笑って、おタケさんは健斗にコーヒーをれてくれる。

「俺のつなぎがどこかにあるはずだから、それ着るか?」

「ぜひ!」

 健斗の大きな返事におタケさんは苦笑して、タンスをごそごそしていたかと思うと、濃いグリーンのつなぎの作業服を取り出した。

成田なりたに洗ってもらったからくさくはないと思うけど」

 おタケさんは健斗にそれを放って寄こし、袋に入った新品のトランクスもおまけにくれる。

「おタケさんってここに住んでるんですか」

 健斗は恥ずかしがることもなく、彼の前で着替え始める。

「まあな。家に帰るのが面倒だし」

 おタケさんは自分の分のコーヒーを飲んで、吐息交じりにソファに横になった。

「ちょっと俺は仮眠。そこらへんのもの、勝手に使っていいから、くつろいどけ。いつ戦闘せんとうに出されるかわからんからな」

「ありがとうございます」

 既に寝息をたてているおタケさんに言って、健斗はちょっとぶかぶかのトランクスは無理として、グリーンのつなぎを自分サイズに調整してから、書棚にあった宇宙人進化論を手に取った。何気に著者を見ると、なんと彦島の名前が書かれている。

 彦島さん、何者?

 只人ただびとじゃないのはわかっていたが、研究論文のようなものまで書いているとは想像していなかった。

 健斗はパラパラめくって、理解不能におちいると観念して本を閉じた。

「彦島博士、か」

 空気に消えてなくなるような声で呟くと、なんだか彦島のことが全然知らない人間に思えてくる。まあ、実際、経歴も知らなければ交友関係も全然知らない。ついでに好きな食べ物も知らない。知っているとすれば、極端きょくたんに意地悪な時と、滅茶苦茶めちゃくちゃ優しい時があるってことくらいだ。それと、仲間を決して見捨てない人だと、本能で知っている。そういうかんに関しては健斗には絶対の自信がある。

 健斗はおタケさんの淹れてくれたコーヒーを飲み干して、実験台のシンクでカップを洗った。

 おタケさんは割とぐっすり眠っている。

 いつ出動になるかわからない、という話だったので寝るわけにはいかないからテスト勉強でもしようと思って、はた、と参考書も何もないことに思い至る。

 スマホを起動して、英語のアプリを立ち上げる。幼馴染おさななじみのケイが海外旅行に連れて行くから英語を話せるようになれ、と無理矢理入れたアプリだが、これなら単語も覚えられるし、ひまつぶせる。

「あら、健斗君。勉強?」

 成田が足音もなく入って来て、手に持っていたブランケットをおタケさんにかけると、健斗のスマホをのぞきこんだ。

 ふわり、と花の甘い香りが健斗の鼻をくすぐる。

 彼女って、こんな良い匂いがしていたのか。

 健斗は成田を男性と間違えたこともあるくらいだから、ちょっと照れ臭くなって、自分の鼻をこすって気を紛らわす。

「これ日常会話の実践編じっせんへんみたいだけど、今の高校ってこういう勉強もするんだね」

 成田は感心したように言って、健斗から離れた。

「高校ではやらないんですけど、俺の幼馴染が勉強しとけって言うもので」

「あら、そうなの?良い事ね」

 彼女は微笑んで、それじゃ、と部屋を出て行った。まるで恋する少年の様に成田を見ていた健斗は我に返った。日影に咲いた花が可憐かれんな姿を隠していたのを偶然発見したようで、思わぬドキドキを消そうと健斗は深呼吸してみた。

 前に会った時は全然別人みたいだったのに。

 今日の成田は女の気配が濃厚のうこうで、性別の違う双子に会ったような気持ちだ。と、元々彼女は女性なのを思い出して、健斗は自分の発想に苦笑いした。

「お前は鋭いのか鈍いのか、わからん嗅覚きゅうかくの持ち主だな」

 いつの間にかおタケさんが起き上がっていて、そう呟いた。

「え?」

ぎ取るのは上手だが、判断が甘いのか」

 納得したように彼は言って、大きく伸びをして首を回した。

「そろそろお前の出番かもしれん。指令室に行くぞ」

 おタケさんは健斗を伴って研究室を出て、いつもの会議室に入った。健斗はそこが指令室と呼ばれる部屋であることを初めて知ったが、やはり、ここは会議室だよなあ、と今更呼び名を変えることもないかとのん気に考えていた。

首尾しゅびは?」

 おタケさんがモニターをにらめっこしている男性のオペレーターに声をかける。

「いまいちですね」

 軽く答えた彼のモニターを一緒にのぞき込んで、おタケさんがうなる。

「良くないな」

 おタケさんは視線を健斗に移して、何か考えるように黙った。

「これを投入したとして、会長の思惑通りにはならなさそうだな」

 おタケさんは決断したらしく、健斗を伴って、さらに奥のスペースへ移動した。

 会議室の奥にはモニターだらけの空間があった。一体何の映像が映し出されているのか健斗には見当もつかない。

「会長、作戦変更ですね?」

 おタケさんが奥へ声をかける。すると今までモニターに同化していたのかと驚くばかりに、何もない空間から彦島がにょきっと現れた。

「そうだな。仕方あるまい。最終兵器は取っておく。グリーンに言って事態を収拾するように」

 彦島は残念そうに健斗を見た。

「?」

 何を企まれていたのか。

 健斗はドキドキして胸をさする。

「会長、少し休まれてはどうですか」

 おタケさんが気遣うように言うと、彦島は寂しそうに微笑んだ。

「部下に気を使わせるようじゃ私もまだまだだな」

「何をおっしゃいますか」

 おタケさんが彦島の肩に手を置いた。

「あなたが踏ん張っているのを、俺らは見ているしかできなかった。今なら、俺はあなたの力になれるかもしれない」

「ありがとう、武田。しかし、これは私の問題だ。気にすることはない。それにしても、会長職というのは私の柄に合わないな。辞めるか」

 独り言のように言って、彦島は思案顔になる。

「いやいや、戦隊は会長あってのものですから」

 おタケさんが慌てて言うと、彦島はニッと笑った。まるで悪戯っ子の微笑みだ。

「そこら辺をあの石頭に分からせてやらないとな」

 叩く気満々だ。

 彦島は、しかし天使の様に優しい微笑みを見せた。

「それでは、デモンストレーションの時間だな」

 彼は楽しそうに言って、モニターだらけの部屋を出た。その後に続いて、健斗とおタケさんは会議室に移ると、巨大モニターに映し出されている光景に息を呑んだ。

「グリーンは雷を扱うのが上手でな」

 おタケさんが健斗の横から説明してくれる。

 戦隊員のユニフォームを着た背の高い男、グリーンが巨大エチゼンクラゲのようなものを相手に手からビームを出して戦っている。

 光が炸裂するモニター画面を胸ポケットからサングラスを出して観戦している会議室の仲間たちを見回し、健斗は目をしばたかせた。

「彦島さん、この人がグリーン?」

 健斗はいつもの席に座った彦島を見上げて尋ねた。

「そうだ。今回の為にわざわざアメリカから呼び戻した」

「え、アメリカ人?」

 健斗が驚いてスクリーンに目をやると、おタケさんが日本人だぞ、と訂正してくれた。

 グリーンはクラゲと熾烈な戦いを極めている。お子様は部屋を明るくしてモニターをご覧ください、と注意書きが画面に入る。

「やはり全世界に停電くらいは引き起こすべきだろうか」

 彦島が独り言のように言い、つまらなさそうにモニターを眺めている。

「そんなはた迷惑な」

 健斗が言うと、彦島は品の良い唇で何かを呟き、モニターに背を向ける。

「あ、あれ」

 健斗がモニターの端に映ったものを見て目を見開く。

「あれって、おタケさんの犬?」

 以前健斗が捕獲した宇宙人に食われた犬だ。そのまま融合したらしく、新しい生命体になっていたはずだが。

 グリーンの戦いの手伝いをしながら、嬉しそうに尻尾を振っている。

「グースだ」

 犬の名前を答えて、おタケさんは画面に見入る。

「楽しそうですね」

 健斗はおタケさんの方を向いて言い、おタケさんはおタケさんで感慨深く愛犬の新しい姿を目に映している。

「まあ、戦隊に怪獣はつきものだし」

 おタケさんがため息交じりに言った。

「役に立つって、素晴らしいことじゃないですか」

 健斗は光や白煙、グースのアップが入り乱れる戦闘の映像から目を移し、彦島に目をやる。

 彼は冷めた目をしていた。目はモニターを見ているが、脳は違うところを見ている、という感じだ。背後に立った石黒が何かを彦島に耳打ちする。すると、彼特有の蠱惑的な笑みを浮かべた。こういう顔をする時は要注意だ。

 彼は健斗の視線に気が付いていたらしく、上から健斗を見下ろし、楽し気に健斗を呼ぶ。

「何ですか」

「今日は出番がなかったが、特別手当をつけてあげよう。政府が特別予算を組んでくれたらしい。素直に私の言うことを聞いていれば、余計な被害など生じなかったものを、な。馬鹿共にはいい薬だったろう」

 年若い見た目の彦島に言われると、なんだか口調がおっさん臭いと注意してしまいそうになるが、彼の醸し出す雰囲気は若者のそれではない。健斗は怯みながら、素知らぬ顔をして「ありがとうございます」と一応のお礼を言っておいた。

 健斗は出番がないのなら帰ろうかと石黒に視線を移すと、彼は察したように頷いたが、彦島に制される。

「健斗、今日は私に付き合いなさい」

「はい?」

「歓迎会をまだしていなかったんじゃないかな」

 石黒を振り返り、彦島は確認を取る。

「はい。グリーンの歓迎会の時はご本人の希望でジャズバーでしたが、今回はどうなさいますか」

 石黒の問いに、彦島がまたあの笑みを浮かべた。

「君に一任しよう」

 石黒に言い、彦島は立ち上がる。

「準備が整うまで私の部屋に来るか」

 健斗を見下ろしながら彦島が言った。周囲にどよめきが起こる。それを見て、健斗に不安がなかったわけではないが、彦島の部屋への興味が不安に勝った。

「会長がお部屋に新人を通すなんて…」

 オペレーターの呟きが耳に入ったが、健斗は彦島の目線に促されて会議室を出た。

「彦島さん、なんか不味いんですか?彦島さんの部屋に行くのって」

「どうしてかね?」

 彦島は先を歩きながら意にも介さない様子だ。

「だって、さっき、みんなどよめいてました」

「ああ。石黒でさえ、私の部屋には入りたがらない」

「…え?」

 健斗の考えと逆の状況のようだ。健斗は彦島人気で彼の近くに行ける健斗が妬まれているのかと思っていたが、違うのだろうか?もっと別な理由、例えば何かすごい秘密があるとか。

 あ、待てよ。やっぱり嫉妬されるから入りたがらないのか?

 健斗は鼻の頭にシワを寄せて考え込む。

「君は見ていて飽きないな。ペットに欲しいくらいだ」

「はい?」

 彦島はふふふ、と笑って艦長室とプレートのかかった部屋のドアを開けた。

 何の変哲もないお偉いさんが使いそうな机と重たそうな椅子がある。その奥には何種類かの旗が掲げられている。そして手前には昭和の匂いのする背の低い応接テーブルと艶のあるこげ茶色のソファが置いてある。壁際の飾り棚は猫足になっていて、隕石のような岩や、価値のありそうな輝く石の数々が中に飾られている。その一つ一つにプレートが表示され、説明が読めるようになっている。そして、腰より低い壁には本棚が備え付けられ、びっしりと本で埋め尽くされている。その上の壁には古い集合写真や賞状、何か国語かの地図が張られていた。

「さすが、艦長、って感じですね」

 健斗は圧倒されて呟いた。

「そうか?こっちは表の顔だ。裏の顔はこっちだ」

 そう言って、隣の部屋への扉を開ける。

 こちらは幾分か簡素な造りの部屋で、ミニキッチンとカウンター、ソファベッドらしきもの以外何もない。

「本当は和室が良かったのだが、畳替えするのが面倒らしくて、こういうことになった」

 彦島は言いながら、キッチンの冷蔵庫脇のガラス棚からブランデーを取り出した。

「先に一杯やっても構わないかね?」

「ええ。あ、でも未成年じゃあ?」

「生憎、成人だ」

 彦島はいつまで経っても同年代扱いする健斗に笑って答える。

「見た目に囚われているようでは、戦隊員として痛い目に合うぞ」

「それは戦闘におけるアドバイスですよね?」

「まあ、そうかな」

 彦島は健斗に炭酸水をグラスに入れたものを差し出した。

「ありがとうございます」

 健斗はカウンターのバースツールに座って、それを一口飲んだ。

「ぶっ」

 健斗が目を回す。

「どうかしたか」

 知ってて聞いてくる彦島に、健斗は意地を総動員して平静を装い、いいえ、と答えることに成功した。

「ウォッカだ」

 彦島は健斗に解答を与え、自分のグラスのブランデーを飲み干した。

「こんなもので酔えるような体であれば、酒に溺れることもできたかもしれないな」

 彦島は顔色さえ変えずに健斗のグラスも飲み干した。

「あの、俺に何か用だったんじゃ?」

 健斗は喉が焼けるような感覚を覚えながら、彦島に問う。

「昔話に付き合ってもらおうかと思っただけなのだが、居心地が悪そうだね」

「いいえ、全然。できればちゃんとした水を貰えればありがたいです」

 健斗は困ったように言い、彦島の高そうなスーツをぼうっと見た。

 彦島は微笑んで、冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出して、ぽってりしたフォルムのグラスに注いで健斗に渡した。

「ありがとうございます」

 今度こそグラスの水を一気飲みして、健斗は一息ついた。

「それで、昔話ってなんですか」

 無邪気に問う健斗を見つめて、彦島は黙り込んだ。

「えっと…」

 健斗は彦島が話す気になるまで待つことにした。

「昔、私も戦場にいたことがある。あの頃は怒りのはけ口に敵を切り倒し、銃を乱射し、我を忘れて人殺しに没頭した。戦うことが充足感を生み、私は戦い漬けの毎日が幸せでたまらなかったよ。今思うと鬼畜だな」

 彦島の言葉は健斗の想像を曇らせ、彦島が戦う姿など想像できなかった。

「戦隊員だったということですか」

「そんな良いものじゃないな。尊い志など皆無だった。私は軍人だ。血が流れる現場に囚われて、平和を恐れる悪鬼というところだな」

 彦島の言い方が暗く澱む。

「それで、今は?」

 健斗が尋ねると、彦島は迷子のような目を健斗に向ける。

「今?」

「彦島さんは今、俺のボスで、絶対的に戦上手で俺を導いてくれますよね。彦島さんに付いて行ったら、死なずに済むって思ってますけど、俺」

 正直な健斗の言葉が彦島の思考を止めたらしい。

 惚けたような表情で、彦島は健斗を見たままだ。そうすると、やっぱり同年代にしか見えなくて、健斗は微笑んだ。

「誰かが戦わないと、平和って守れないんでしょ?」

 健斗が言うと、彦島はそうだな、と答えて目を逸らした。

「君は私に似ている。だから、戦いに染まって、神経がおかしくなる時があれば、迷わず私を頼ってくれと言うつもりだった。しかし、必要なさそうだな」

「まさか。俺には彦島さんの力が必要です」

 断言して、健斗は彦島を見た。ややあって、彦島は健斗を安心させる時のいつもの柔らかい微笑みを見せた。

「戦いに明け暮れていると、先が見えなくなる時があるんだ。何の為の戦いで、誰の為に戦うのか。私はいつも自分自身の為に戦ってきた。だから平和の為に戦える君が少し羨ましい」

 羨ましい?

 健斗は聞いたことのない言葉を聞いたように耳を疑った。

「なんか彦島さん、違う人みたいだ」

「…君はどういう風に私を見ているのだ」

 彦島でも思い悩むこともあれば、誰かを羨むこともある。そんな単純なことが見えない相手だからこそ、健斗は彼のことをもっと理解したいと思うのだ。

 彦島はもう一杯ブランデーを水の様に飲み干すと、着ていた上質な上着を脱いだ。それから深い藍色のネクタイを緩めると、吐息をひとつ。アイロンの跡がきちんとついた白いシャツは左袖に紺色の糸で彦島と刺繍されている。

「会長」

 部屋に石黒の声が届いた。健斗が姿を探すが、声だけで姿は見えない。

 どういう仕組みなのだろうか。

「手配できたか」

 答える彦島は石黒の姿がない事にも動じない。慣れている、ということだ。ここでは姿が見えなくても声だけで通信する方法があるらしい。どこかにマイクとスピーカーが隠れているのだろう。

「それが、深夜ですので店の手配ができません。健斗くんは未成年ですので、後日改めてでも構いませんか」

「わかった。宜しく頼む」

「了解しました」

 声が消えると気配が遠ざかる感じがした。

 彦島は健斗を見て、肩をすくめた。

「帰るか?」

「そう、ですね。明日も早いんで」

 健斗は少し寂しい気持ちで答えた。彦島が珍しく慈愛に満ちた目で健斗を視る。

「最近、特定の綺麗な女子高生を送り迎えしているのだそうだな。恋人ができたか?」

「え、どこからそんな情報手に入れたんですか。けど、それ間違ってますから」

 健斗は慌てて否定して、「あ、違う」と呟いて、困った顔になる。

「確かに美人ですけど、それは事実なんですけど、恋人じゃないですから」

 健斗は美月の事をどう説明するのか迷って、結局それだけしか言わなかった。

「そうか。残念だな」

「え、残念?」

 健斗は彦島の意図するところが見えずに戸惑う。

「日本の未来を担う者たちが順調に繁殖してくれると私も嬉しく思うのだが」

「は、繁殖って、なんかリアルな言葉使わなくても」

 健斗はなぜか真っ赤になって彦島に言うと、彼から目を逸らした。動物に繁殖という言葉は使っても、人間に言う言葉と思っていなかったし、まして、彦島の口からそんな言葉が出てくるとは驚き以外の何物でもない。

「そんなウブではこの先困る事が多いだろうな」

 彦島は言って苦笑し、ギラギラした鋭い目を健斗に向ける。目を逸らしている健斗は気が付かない。

「訓練内容に色仕掛けも加えねばならないな」

 ボソッと呟いて彦島は腕を組んで健斗を観察している。

 視線を感じて、健斗が目線を彦島に戻した。

「え?」

 何か説教されそうな雰囲気だったので、健斗がきょとんと心当たりを頭の中に思浮かべながら怖気づいている。

「今夜は夜勤の特別手当がつく。それで彼女をデートに誘えばいいのではないか?」

「いやいやいや、デートって」

 健斗は大きく拒否してまた赤くなる。

「わかった。お前にその気がないのならば何を言ってもパワハラになってしまうからな。もう言わないよ。健斗、お疲れ様」

 彦島は今まで見たどの笑顔とも違う笑顔でそう言った。

「お疲れ様です」

「ゆっくり眠って、明日も健全な高校生活を送ってくれたまえ」

 彦島の言葉が終わるか終わらないかのうちに、健斗は家に帰されていた。今日は母親は夜勤だから家には一人きりだ。

 彦島の、あの笑顔が頭に張り付いている。

 何かを言いたかったのではないだろうか。でも今の頼りない俺には言えなくて、でも伝えたい言葉。何を彼は思っているのだろうか。

 健斗はもやもやした気持ちのまま、頭をかいた。

「あ、おタケさんの服」

 借りてきたままだ。洗濯して返さなければ。

 ピコン、とスマホのメッセージ音が鳴る。手に取って画面を見るとおタケさんからだった。

 つなぎ、やる。

 それだけ。

 今着ているグリーンのつなぎをくれるということらしい。

 ありがとうございます、と返信して、健斗はパジャマに着替えた。もう呼び出しはないだろうとのんびり思って。

 それが甘いという事は三時間後に思い知ることになる。

 深夜。もう朝方と言うべきか。

 ピロロロ。

 一回、二回、三回目が鳴り終わろうかという瞬間、健斗は超人並みの行動を見せ、3コール内にスマホが面をスワイプしてみせる。

 間に合った。

 彼は何度目かのパジャマ姿のまま会議室に移送されることになった。

 今日も夜の明けない暗いうちから平和を守る地味な、もとい、地道な戦いが始まる。パジャマ姿のまま気合を入れた健斗の斜め上にいる彦島がニヤリと笑うのだった。













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