第一章 絳焰の試練 その3

「……へ?」

 火はない。完全に消し止められていた。──いや、そんな段階を通りしている。

 いきなりそうれいな音楽が耳に飛び込んできた。ふくいくたるじんこうかおりが漂っている。

 天井が高く広々としたびようは無数のとうじゆかがやき、百官が整然と立ち並んでいる。

 清潔な朝衣に身を包んだ彼らの後ろで、煤まみれでっ立っているわたしはこつけいだった。

 柱にはこうてい陛下そく十周年を祝うたいれんがかけられている。

 皇帝になってから十年? 朔耀様の父親の在位はそんなにも短かっただろうか?

 そもそも、遠く最前のだんじように神仙廟と共に立つ皇帝と思われる姿をした人は青年に見える。

 朔耀様の父親ではないように見える……?

「──煙くさいな? なんだ、このむすめは」

 だいに周囲の人たちが、わたしの存在に気づき始めた。

 彼らは異様なものを見る目をしていた。わたしもちがいなのは理解していた。

 鼻の奥には木と油の燃えるにおいが残っている。それなのにか、わたしはこのびようどうの外に立っているだろうたちの見張りをすり抜け、皇帝の即位十周年を祝うそうごんしきを、百官のさいこうぼうぜんながめていた。

 意味がわからない……こわい、今すぐ逃げてしまいたい。

「衛士、一体何をしていた? お前たちの仕事はなんだ?」

「も、申し訳ございません。お前、どこから入ったんだ!?」

 青い官服を来た男に乱暴に腕を引かれ、こんわくする衛士に引きわたされる。

 わたしはなすすべなく連れて行かれようとしていた。けれど、それをとどめる声が聞こえた。

「待て! ──翡翠、なのか?」

「朔耀様?」

 聞き覚えのある声だった。でも、聞きなじみのない低いひびきを帯びていた。

 わたしのこたえが廟堂に響く。最奥に立つ青年は金色の目を見開いていた。

 ひときわ高いきざはしの上からゆっくりと下りてくる。その手に持っていたしやくを階段から下りきる前に落としたけれど、彼は落としたことにすら気づいていないようだった。

 わたしの腕をつかんでいた衛士がそっとわたしを放し、退いていく。

「……朔耀様、なの?」

 前後に十二本の玉のひもを垂らすかんむり、金銀のりゆうおどごうしやしゆうのされた黒地のうわ、紅地のへいしつに大帯、かくたいめ、長くひだのあるくんすそを引きながらにしきじゆうたんを歩いてくる。

 れたようにつややかなくろかみ、黒いまつふちられた星の輝きを映すそうぼうはわたしの姿を認めてますますみはられる。ひそめられたりゆう、わななくくちびる、整ったりようらしく白いはだ

 はくせきぼう、神仙のような美しさを持つ人がわたしを見ている。

 自分が煤にまみれているというだけで、ずかしさで消え入りたいと思うのは初めてだった。

 逃げようとすぐ腹が決まった。背を向けて走り出し、耳をふさいで何も聞かなければいい。

 けれど、地をりかけたわたしの足を、彼はその一声で止めた。

「行くな」

 れいろうな響きに石のようにこうちよくし、動けなくなったわたしのもとに彼が辿たどりついてしまった。

 近くで見るとますます神仙のせきとしか思えない美を持つ青年だった。山の頂上から見える星の輝きだけを集めて作られたかのように輝かしく、目映まばゆくて正視にえない。

 ねんれいは十六歳のわたしより明らかに上だろう。目が痛い気がして顔をらすと、傷一つない手がびて、わたしのあごとらえてあおかせた。

しんせんが、余の十年にわたる忠節にほうたまわった」

「きゃあっ!?」

 美しい青年がわたしの身体からだきしめる。思わず悲鳴をあげてしまった。

 わたしは煤まみれだし、それ以前に何もかもがふさわしくない。きようすら覚え、げ出したかった。けれど、もがこうとした時、聞こえた言葉に気が変わった。

「翡翠が生きて戻ってきてくれて、よかった……!」

 なみだの混じるかすれた声は、わたしの知る幼い朔耀様のそれだった。

 けれど聞き慣れない低い響きに混乱した。

 本来わたしなんかがれてはいけない、うるわしいもくしゆうれいな宝玉のような青年のはずだった。

 同時に、ここにいるのは確かにわたしが約束をわした朔耀様だった。

「どうして……なんで朔耀様がわたしより大きいの……!?」

「っ、そなたが……っ! 十年も、帰って来なかったからだッ!」

 一体いつの間に、そんな時間がってしまったのだろう?

 もしかして、わたしはねむっていたの?

 火事にった後、助けられて、こんすいしたまま長い時を過ごしていたのだろうか?

 それにしては、おくの断絶を感じない。わたしは火にまかれ、地下室に迷い込み、階段を上ったら、ここに出てきた……どこからか、夢でも見ていたのだろうか。

 目覚めたわたしがどうしてここにいるのか、ここがどこなのかもわからない。

 けれど、たままふらふらと出歩いてしまうというやまいもあると聞く。

 昏睡状態からかくせいしたわたしに、朔耀様は喜んでくれているのかもしれない。

 わたしが母様のようにふるまったから、朔耀様は母様をしたう幼いわたしのようになついてくれた。そんなわたしの目が覚めたのだ。今の朔耀様はわたしになんと言ってほしいだろう?

 朔耀様の望みはおそらく完全に理解できた。

 それは、かつてように母様をおそわれて失った、わたしの望みだ。

 できることなら、わたしも母様に帰って来てほしかった。

「──ただいま、朔耀様」

 この美しいものに触れていいのだろうか?

 迷いながら、恐ろしい気さえしながらも、朔耀様の身体にうでを回して背をいた。

 広くなりすぎて腕が回りきらない朔耀様の身体にひるみつつ、その背をでた。

 わたしだったらこう言ってほしい。わたしだったらこうしてほしい。

 そして、もしもわたしが朔耀様の立場なら、こう言うだろう。

「よくぞもどってきた、翡翠……っ!」

 朔耀様なりの『おかえり』はずいぶんぎようぎようしい。


 けれど、いつの間にか大人になった朔耀様の地位にはそれがふさわしい物言いなのだろう。

 百官のもくを一身に集めながらわたしを抱いて静かに泣いている、きやの香りをまとったこの人は──朔耀様は、どういうわけか、華燁国皇帝の座にいてしまっていた。


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華耀後宮の花嫁 時を越えたら、溺愛陛下⁉ 山崎里佳/角川ビーンズ文庫 @beans

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