第一章 絳焰の試練 その1

げたい……」

 ここは神仙に守られた国、華燁国。

 数千年前、華燁国の最初の皇帝となる男、てんそうが生まれたらしい。

 この男は神仙と出会ったのだという。そして試練を課された。

 なんとか試練を乗りえて、ほうとして男は神仙の加護を華燁国にもたらした。

 それ以来、天宗の血をぐ皇帝をいただく華燁国にはほとんど危険な妖魔が出ない。

 うらやましい話である。どうしてその男が生まれた国は、わたしの故国、りよくせんこくではなかったのだろう?

 ──とまあ、そんな国に嫁いできてしまったわたしなんだけれども、一応公主というれ込みだ。だけどこれは、看板にいくらかいつわりがある。だからバレておおごとになる前に、逃げたい。

 毎日少しずつ、逃げ出すための準備を進めている。

「翡翠様、朔耀様がいらっしゃいました」

「うわっ、はい! どうぞ!」

 とうぼう物資を机の下に押し込んでから女官に返事をする。見つかったら取り上げられるだろう。

「翡翠! ……ごげんいかがですか?」

 少年が元気いっぱいに部屋に飛び込んできた。わたしの夫という触れ込みの朔耀様である。

 しん朔耀。紅顔の美少年だ。十歳である。どことなく品のある顔つきをしている。

 すいりよくに染めた絹の深衣ににしきの帯を巻いていた。わたしの瞳の色とそろえてくれているらしい。

 うるしのようにこうたくのあるくろかみを頭の両側に軽く結い上げ、ぞうこうがいしていた。

 金の瞳はわたしがこれまでさんせんで見つけたどんなはくより美しくかがやいている。

「ひ、翡翠? どうしたの?」

「あっ、ごめんね」

 わたしをじやに見上げる瞳ににじいろこうさいが見える気がしてついのぞき込んでしまった。

 綿のたっぷり入った錦の襖を羽織っているのに、寒さのせいか真っ赤になったほおでまわしたいしようどうられるけれど、女官におこられそうなのでぐっとこらえる。

 彼は第三皇子だ。かなり上位に思える。でも玉座にくことは絶対にありえない。

 何故なら皇后ににくまれているからだ。正確には、朔耀様の今はきお母様が憎まれていたという。なんでも皇帝が朔耀様のお母様をちようあいしていたのだそうだ。

 上の二人は朔耀様を憎む陳皇后の子どもだ。陳皇后は必ずや自分の子を皇位に就けようとしているし、難しいことではない。宮中におけるもっぱらのうわさばなしの種である。

「本当は勉強なんてほうり出して、すぐにでも翡翠に会いに来たかったんだよ。どうして勉強をしないと翡翠の夫としてずかしいと言われてしまうんだろう?」

 不満そうに唇を尖らせる朔耀様に、わたしは母様のように言い聞かせてやらなければならないという使命感を覚えた。

「たぶん……それは朔耀様がここで生きていくために必要な知識なんでしょう。理由はいつか理解できます。まずは足をすくわれないように、身につけましょう」

 先達が必要だと言うのであれば、ここで生きるためには、湯にいたこうかおりや、人の手を借りないと着られないごうしやじゆくんは必要なものなのだろうとわたしもかいしやくしている。

 山を行く時、人のにおいを消すために妖魔のあぶらを塗り、保護色のがいとうを着るようなものだろう。

 わけがわからなくても、教えてあげるから、やってくれないと案内人としては困る。

 ──わたしは、りんごくの緑閃華国という国の山奥で暮らしていた。

 今わたしがいる華燁国と緑閃華国の間にある山で、お金をもらってこっそり国境門を通らずに二、三人の道案内をする仕事で生計を立てていた。見つかったらお上に怒られるような仕事ではあったけれど、少人数で国境を抜けると十中八九はさんぞくおそわれるような治安の悪さなので、やむにやまれずといった形でわたしの案内を求める人がお客だった。

 道中の山道は、山賊とそうぐうする方がましだった、と思うような妖魔もうじゃうじゃ生息している。けれど、色々と対策をすれば妖魔の方が山賊よりはわたしにとってはぎよしやすい。

「うん……今はよくわからないけれど、翡翠がそう言うのならがんるよ」

 聞き分けのいいなお可愛かわいらしいおうである朔耀様に、どうして言えよう?

 わたしは本来皇子とけつこんする資格なんてない、ただの名前だけの公主で、田舎いなか娘だ。

 緑閃華国が田舎娘に公主というの名をかぶせて嫁がせたのには理由がある。

 都市部でよう害によるきんが起きているらしい。

 なので、緑閃華国は豊かな華燁国にえんを求めたのだそうだ。引きえに公主を一人差し出すという条件で。……で、差し出されたのがわたしである。

 ただし、わたしの公主という看板が完全にちがっているわけでもないらしい。

 どういう経緯いきさつか母様は緑閃華国の王とこいびとになってしまって、わたしが生まれたようだ。

 父である王は母様を側室にしようとしたらしいが、母様はいやがり逃げたのだそう。

 どうして母様が嫌がったのか、本当の理由はもう永遠にわからない。

 母様はわたしが八歳の時に妖魔に襲われ亡くなったからだ。

 そもそも緑閃華国の王が本当に父なのかすらもわからない。

 というか、わたしは王に会っていない。しよう父親の使いの人がやってきて、あなたは緑閃華国王の娘、つまり公主なのだから、国の危機を救うために身をすべきである、といきなり言ってわたしを山から連れ出したのだ。

「今日は翡翠とたくさんお話しできるかな? でも翡翠、出かけるの? 服をえているね」

 ざとい朔耀様はわたしが外出用の襦裙を身にまとっているのをすぐにいた。

いつしよに行きますか? 朔耀様」

「わっ、いいの?」

「はい、しんせんびようもうでようと思っていただけなので、その後は自由です。特に何もやることもないので」

「……ごめんね、翡翠。こんの日取りが延期されているのは、ぼくのせいだ」

 確かに、わたしが二ヶ月も放置されているのは朔耀様への嫌がらせではあるのだろう。

 それを朔耀様が自覚してしまっているのが心苦しかった。

「朔耀様が悪いわけではありませんよ」

「相手がぼくでなければ、翡翠はこんな風にあつかわれはしなかったはずだもの」

「皇后様が朔耀様に嫌がらせをするのは、皇后様の気持ちの問題で、朔耀様は関係ない」

 朔耀様は金の瞳を丸々と大きくみはった。そして、あわてて周囲を見回した。

「翡翠……皇后陛下をそんな風に言ってはいけないよ。聞かれたら大変だよ。でもありがとう。そんなことを言ってくれる人はほかにはいないよ。翡翠は皇后陛下がこわくないの?」

 わたしは早晩この国から逃げ出すつもりだから、怖がる必要がないだけだ。

「ええと、朔耀様、道案内をしていただけませんか? もしよければ」

「いいよ! ぼくがどこでも案内してあげる!」

 暗かった朔耀様の顔がぱっとはなやぎ、心がなごんだ。朔耀様はたぶん、ここから逃げられるのだと知らないだけだ。知ればきっと怖いものなどなくなるだろう。

「それじゃぼうをちゃんとかぶってね。翡翠の顔を見るのは夫になるぼくだけの権利だもの」

 わたしが帷帽から垂れる長いしやで顔をおおうと朔耀様は満足気なみをかべた。

 その笑みに胸が痛んだ。逃げるのがわたし一人なら、どうにでもなる。

 何しろわたしがさがされるとしたら、緑閃華国の公主としてだ。

 けれど、そもそもわたしは山育ちのしよみんである。

 付け焼きの公主の仮面を被っているが、こんな鍍金めつきは引っかけばすぐにがれてしまう。

 しなやかな公主を捜す追っ手には絶対につかまらないと自信を持って言える。でも──。

「異国の客人としてここにいる間は難しいけれど、春になったら城市にたんを見に行こう。とても美しい牡丹をかせる寺社がいくつもあるんだ」

 この育ちのいい無邪気で気品のある皇子様が、どうやったら世間にまぎれ込めるだろう。

 いくらか想像してみたけれど、せいに紛れる朔耀様の姿が思い浮かばない。

 そもそも、朔耀様は少なくともえて死ぬことのない安全な箱庭から逃げ出したいだなんて夢にも思っていないかもしれない。

 口にできない言葉を飲み込んで、朔耀様とすいせいきゆうを出た。ゆうもんけて後宮を抜ける。

 ない省所属の道士のが門の内外に立っていて出入りの人間をかんしている。

 わたしはこうていひんではないので出入りできた。

 門を通り、すぐ左手のかべに沿って、ひっそりとたたずむ古い廟があった。

「あの廟に立ち寄りたいです、朔耀様」

 柱は木のまま、壁は純白。屋根に石のままの色をしたかわらかれている。

 へんがくには『神仙廟』とだけ書かれ、しんせんたたえるついまれた五色のたいれんがあちこちにかかっている。青、赤、黄、白、黒は神仙が纏うころもの色だ。安全な場所でしか着られない目立つ色だ。

 天高くに存在するというせんにんの国は、よほど平和なところなのだろう。

 朔耀様を外に置いて、廟を詣でるふりで中に入る。ひと気はない。

 供え物をするたんの台を通り過ぎ、廟にまつられた神仙像の裏に持っていたつつみをかくした。

 だつしゆつした後の着替えや路銀を入れた包みだ。長居はせず、すぐに外へ出た。

 朔耀様はわたしを見て目を丸くしていた。終えるのが早すぎたのかもしれない。

 それ以降は、朔耀様が案内してくれるままに外朝を見て回った。

 有力な貴族の貴公子たちや、科挙を受けて全国から集まったしゆうさいたちがつどう官庁街だ。

 衛士は困ったように笑いながら、朔耀様がたのめばぼうとびらを開け放ってくれた。

「朔耀様は顔が広いのですね」

「ぼくも皇子だからね。顔を知らない者はいないよ」

「なるほど……そうなのですね」

「翡翠の国では皇子は臣に顔が知られていないの?」

 王子や臣のことなんて知るはずもない。けれど理由を朔耀様に言うわけにもいかない。

 わたしは蔑ろにされていた公主まがい。あなたはそんなものをあてがわれたのだ、なんて。

 ただ、このな少年にうそきたくない。

「ええと、少なくとも、わたしは拝見したことはありませんね」

「そうなんだ! 兄弟の顔も? ……ええと、その、変わってるね」

 朔耀様はわたしの言葉を信じてくれたばかりか、気をつかって言葉を選んでくれた。

 ──やさしい少年だ。こんな少年に寄せられる、ぜんぷくしんらいがとても重い。

「ああよかった! ちゃんとの花が咲いている。翡翠、こっちへ来て!」

「はい……朔耀様、寒そうですね」

 銀糸で玉が、金糸でじやくしゆうされたきんらんどんの披帛を朔耀様のかたにかける。

 朔耀様はき返そうとしていたけれど、わたしが本当に寒くなさそうなのを見て大人しく羽織ってくれた。

 華燁国の北にある山奥でふゆしするのがつうだったから、寒さには慣れている。

 遠目に立ち働く青年が湯気の立つ湯を飲んでいた。小刻みにふるえている朔耀様のためにもらいに行くと、蒸籠せいろで作っていた軽食までもらってしまった。

「朔耀様、お茶をいただいてきました。ついでにできたてのまんじゆうももらったので、それも」

美味おいしそうだね……だけど、ぼくも食べていいのかな?」

「いけないんですか?」

 わたしはさっそく口をつけてしまった。

 口の中いっぱいに熱いにくじゆうが広がる。羊肉だ。軽くでた歯ごたえのある肉とたっぷりののうこうあぶらあぶらいためられたしようねぎのおなかのすく味の中に、きつさわやかなかおりを感じる。松の実のこうばしさ、みじん切りにされているのに歯ごたえが残っていて肉の食感にきない。

 さらに湯を飲むと、身体からだしんからぽかぽかと温まった。

「毒見をしてもらわないと食べてはいけないと……でも、翡翠も飲んでいるから、ぼくも」

 朔耀様のぎよくはいを口に運んで一口飲むと、「あっ」と声をあげられた。

「翡翠に毒見をさせるつもりなんてなかったのに!」

だいじようそうですよ、朔耀様」

 わたしは身体が丈夫なので、朔耀様にとって絶対に安全とは言いきれないけれど。

 じっと玉杯を見つめていた朔耀様はやがて意を決した様子で茶を飲んで、真っ赤になった。

「あ……熱かっただけだからね!」

「そんなに熱いでしょうか? あと、そこからはわたしが飲んだので紅がついてしまっていますし、他のところから飲んだ方が──」

「そ、そんなのわかってるよ!」

 朔耀様が首筋まで赤くしたのを見て思わずき出すと、もうこうされた。

「こんなに熱いものを飲むのは初めてなんだから! 少ししんちようになっただけだよ! もう、翡翠ってば、笑わないでよ!」

 そうとする朔耀様の可愛かわいらしさを楽しんでいられたのはつかの間だけだった。

 すぐに少しもおもしろくない事実に気づいた。

 熱いものを食べたことがないのは、毒見されるうちに冷めるからだろう。

 毒を飲まされる心配をしなくてはならないなんて、やはりきゆう殿でんという場所はおかしい。

 だから母様だって山奥に隠れたのだろう。こんな場所は早々に後にするべきだ。

 明日あしたからげんしようせつが始まる。わたしの国でも、華燁国でもお祭りさわぎが三日三晩も続く。

 夜行の禁が解かれ、坊城のすべての扉が開け放たれ、宮女さえ宮殿から出られる。

 わたしもその騒ぎに乗じて宮殿をげ出す。そして二度ともどらない。

「あの、翡翠。聞きたいことがあるんだけど──いや、なんでもない」

「朔耀様?」

「本当になんでもないの」

 朔耀様がそう言うのであれば聞かないでおく。

 どうせ、明日には今生のお別れをすることになるのだから。

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