03.手は二本あるのが人間

 ネルは奇妙に笑うその男を見た。魔法はきかないと嘯く男を。


「さぁさぁお嬢さまぁ! おとなしく僕のものになれば、生かしてあげるわよぉ!」


 片腕に直剣、片腕にナイフをぶら下げ、男はふらふらと歩み寄ってくる。まるでネルを警戒していない。

 ネルは紫紺のドレスの裾がまくれるのも気にせず、風魔法を唱える。ネルを中心とする空気の渦が巻き起こる。


「細切れになりなさい。刃竜巻トルネードカッター!」


 ネルの周囲が焔を取り込んだ竜巻となる。壊れた笑いを向けてくる男を呑みこみ、竜巻は暴風へと変わる。

 仕留めたと感じた瞬間、ガラスを割る音を奏で竜巻が砕けた。まき散る暴風が屋敷を燃え上がらせる炎を煽り、残骸を切り刻む。


「ふふ、僕には効果ないのよ~?」


 男はナイフを舐めながら嗤う。ネルは奥歯をかんだ。

 手加減なしの今の魔法で男は細切れになるはずだった。なっていなければおかしい。

 ネルはハート王国で最強の魔法使いだ。彼女を上回る魔法の使い手は存在しない。


 とするならば、この男は?


 ネルは後ずさりしながら考えた。魔法が通用しないのは、ハッタリではないだろう。

 魔法は体内のマナという魔素を燃焼させて行使するものだ。いかな最強の魔法使いといわれるネルとはいえ、常に魔法を使うような事態がおこれば体内のマナは枯渇し、戦闘不能になる。

 この男は、これが狙いだとふんだ。無駄にマナの消費はできない。


「おとなしく僕のものになれば、殺さないで上げるのにぃ。その可愛らしい顔が苦痛に歪む様は、みたくないのよねぇ」


 ニタリと笑い男は言う。


「さぁ、僕のものにおなり」

「お断りですわ」


 ネルは燃え盛る屋敷に向かって走った。男に背中を向けることになるが、魔法を封じられたも同然ではまともに戦えない。

 ただ男は自分を殺したいわけではないと考えた。ゆえに背を向けたのである。


「あはは、鬼ごっこってわけぇ? 僕も大好きさぁ!」


 ネルは背後から迫る足音を聞いた。走りにくいドレスのネルよりも早い足音は、確実に距離を狭めている。

 もう目の前が炎に埋め尽くされるところにきて、ネルの足元にナイフが刺さった。ちょうど次の一歩を踏みしめる位置に刺さったそれに、ネルは足を取られた。


「いたっ!」


 ぶざまに転がるネルをみた男は「ほぅら、言わんこっちゃない」と愉快そうな声を上げた。土まみれになったネルが顔をあげると、すぐ目の前に男の足があるのを見てしまった。


「うふふ、つーかまえたぁぁ!」


 ネルは屈んだ男に髪を掴まれ、無理やりに顔をあげさせられた。歪んだ笑顔の男がすぐそばにある。


「泥んこの顔も、可愛いわねぇ」


 恍惚の表情の男に、ネルは生理的な嫌悪を覚えたが、これがうまく隙を作った。ネルは髪を掴まれたまま男の首に抱きついた。未婚の女性のやることではないが、緊急自体にそんなことは言ってられない。意外に筋肉質な感触に戸惑いつつも、力を籠め男の体にしがみついた。


「あらあら、どうしたの子猫ちゃぁぁん」


 気持ち悪い言いようにも耐え、ネルは魔法を唱える。


「炎に力を!」


 ネルが唱えた魔法は燃え盛る屋敷の焔に宿り、バキリと音を立て柱をへし折った。柱を掴んだ焔は生きている腕のように伸び、ネルをめがけて飛んでくる。


「なぁにあがいちゃって。か・わ・い・い」

「お褒めいただき、大変うれしく思いますわ」


 ネルは見ていた。男の背後から迫る炎の柱を。

 魔法がきかないなら物理的につぶすだけ。ネルはそう考えた。ある意味賭けではあった。

 魔法だけでなく武芸にも秀でている可能性は高い。ネルが物理的に攻撃しても軽くあしらわれてしまうだろう。

 苦肉の策だ。

 ネルは離さないよう、振り落とされないよう男の首を掴む力を強めた。


「あらぁ、そんな見え見えの手を使っちゃぁだぁめよぉ~」


 男の苛つく声と共にネルの身体ごと宙に浮く。男がネルを抱えたまま大きく飛び退いたのだ。

 炎に包まれた柱は無情にも地面に刺さり砕け散った。


「ざんね~ん」


 愉快そうな男の声がネルの耳に入るが、それこそネルの狙いだった。


「一本だけって、だれが言ったのかしら?」


 ネルがニヤリと笑った瞬間、別の柱がふたりの身体を貫いた。

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