02.厄災は向こうからやってくる

 宮殿から逃げるように馬車に乗り込んだネルは王都のクローバー邸へ急いでいた。婚約破棄の話はまだネルしか聞いていない。両親への報告とその後に降りかかるであろう火の粉への対応を考えなければならなかった。

 有力侯爵令嬢とはいえネルが王族と婚姻を結べるのは、ひとえにその魔法の力だった。

 婚約破棄ということは、その魔法の力が不要になった、ということでもある。

 ネルは乙女チックに彩られた馬車の中で爪を噛んでいた。


「私の力が不要となる事態を考えねばなりません」


 王都の宮殿からクローバー邸までは歩いても十数分でつく。だが貴族である以上、徒歩は許されないのだ。

 その短い時間が、ネルの対抗手段を考える唯一の時間だった。


「ダイヤ、おいでなさい」


 ネルがパンと手を叩くと向かいの椅子の上の空間が歪む。スッと空間が縦に割れ、できた隙間から黒猫が顔を覗かせた。 

 するっと滑るように出てくると、ネルの膝の上で丸くなる。


「宮殿の様子はどうでした?」

『チェス帝国の間者がいるね』


 ペロペロと手を舐めながら、黒猫が言う。

 チェス帝国とはハート王国と国境を接する超大国だ。正方形に近い形をしたハート王国の一辺と接し、貿易は密であるが王族の交友はあまりなかった。

 弱小国ハート王国は相手にされなかったのだ。


「なるほど、あそこが手をまわしていると」

『近いうちに大きな戦争でも起きて、この国も無くなる』

「祖国なのでなくっても困るのですが」

『困るのは上の方だけで草民には関係ないさ』


 ダイヤは呑気にあくびをした。


「わたくしが不要なのは、かの帝国が後ろ盾になるからなのですね」

『強大な力を持つネルは未来へ残す禍根だもんね』

「さっくり言われると、さすがに傷つきますわ」


 ネルはぷいっと横を向いた。


『ま、なんにせよ逃げる準備はした方が良さそうだよ』

「えぇ、その話を聞く限り、わたくしが生きていること自体が障害になりそうです」

『家族はどうする?』

「一緒に逃げるに決まってます」


 その時、馬車が急に速度を落とし、前に向かって座っていたネルはつんのめりそうになった。

 ダイヤをぎゅっと抱いて向かいの座席に転がった。


「なにごと!?」


 ネルは素早く体を起こし、馬車の窓に張り付いた。窓の外に、真っ赤に燃える屋敷が見えた。見覚えのある、クローバー家の屋敷だ。


「家が、燃えている!?」


 冷静なネルもさすがに慌てて馬車のドアを開け、飛び降りた。降りた先には阿鼻叫喚の地獄絵図が待っていた。

 燃え盛る屋敷はクローバー家だけではなく、隣接する貴族の屋敷にまで火の手が上がっていたのだ。

 逃げ惑う人影と交差する悲鳴。紅蓮の焔に染まり焦げた臭いを吐き出す煙。音を立て崩れ落ちる建物。

 ネルは一瞬だけ意識を奪われたが即座に飛び退いた。


 ザンッ!


 紫紺のドレスが大きく翻り、今までネルがいた場所に槍が刺さる。

 ネルは目を細め、その槍を投げた人物を睨んだ。漆黒の執事服に身を包んだ、顎髭を蓄えた中年の男だ。

 手には直剣を持ち、壊れた笑みを浮かべ、散歩をしているような軽い足取りで近づいてくる。


「おやぁ、素敵なレディがいらっしゃるわねぇ」


 その男は、若い女性が聞けば思わず枝垂れかかってしまうだろうテノールを奏で、オネエ言葉を吐いた。


「あぁ素敵! 僕があの可愛い子を好きにして良いなんって!」


 その黒い男は持っていた直剣に舌を這わせ、うっとりと恍惚の表情を浮かべた。

 その下種な顔にネルは眉を寄せずにはいられなかった。


「その気持ちの悪い言いようで可愛いと言われても肌があわ立ちますわ」


 ネルが口を曲げるとその男は残念そうな顔をする。


「そんなことしたらせっかくの綺麗なお顔が台無しだわ」

「オネエ言葉を操る変態に言われたくありません」


 言葉を交わす間にも、ふたりの間合いは狭まっていく。

 周囲の業火で人気は無くなった。これだけの火災でも駆け付ける兵士の影はない。


「貴方がわたくしへの刺客ということなのかしら?」

「頭の回転も速いなんって、もうっ最高ヨォォ!」


 執事服の男は胸元に手を入れナイフを取り出し、指に挟みこんだ。


「うふふ。最強の魔法使いさんは、どんな悲鳴を上げるのかしら? やっぱり無難に〝きゃぁぁぁ〟とか? 可愛げに〝いやぁぁぁ〟とか?」


 嬉しそうにナイフを舐めながら語る男に、ネルは嫌悪感しか持ちえない。そもそもこの男に興味はなく、一番は家族の無事を確認することだった。


「そんな無様な悲鳴などあげませんわ」


 ネルが片手を翳すと足元の地面から蔦が生え、男に襲いかかる。だが男はゆらりと傾いたかと思うと、その手のナイフを一閃させた。

 蔦は切り裂かれ、力なく地面に落とされた。


「あっはは、僕に魔法は効かないよ! だって、そうんだもの!」


 その男は右目をぐわっと広げ、狂った笑顔を見せた。

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