ネクロ様が逝く。~お供はポンコツ吸血鬼~

凍った鍋敷き

01.婚約破棄は突然に

 聞きなれない言葉は、しばしば人の動きを止めたりする。いまのネル・クローバーのように。


 ハート王国宮殿。謁見の間。

 荘厳な彫刻で飾られた広大な空間に、壇上の王座でふんぞり返る王と脇に立つ王子。そしてその下手には紫紺のドレスに身を包んだ美しい令嬢がひとり。たったひとりで立ち竦んでいた。


「シャール殿下。今なんと仰いました?」


 ネルはその麗しい顔を壇上にいる彼に向けた。結い上げてはいるが背まである金糸は滝のように流れた。その翡翠の目には突然の言葉に困惑すると同時に強い疑念の色が宿っている。


「聞こえていなかったか。そなたと第四王子シャールの婚約は破棄となった」


 シャールと呼ばれた王子ではなく、王座から声が降った。念押しするようなその言葉にネルは気が遠くなるのを感じたが、ぎゅっと唇を噛んで耐えた。そして拳を握り声を張り上げる。


「このハート王国において最強の魔力を誇る我がクローバー家の次期当主である私〝ネル・クローバー〟が、如何な理由で幼少から決まっていたはずの婚約を破棄されねばならぬのか、お聞してもよろしいでしょうか?」

「国家の都合だ。この決定が覆ることはない」


 気丈に声を張ったネルに、答えは非情であった。有無を言わさぬ王の言葉と、脇に佇むシャールの背けた視線が雄弁に語っていた。

 何かしら理由があって婚約破棄となった。

 ネルはそう感じた。だがそうだからといってこの決定が覆らないことも、分かってしまった。 

 不平と不満と不安が渦巻く胸中を深呼吸で鎮めるが、どうすることもできず、ネルは俯いた。


「以上だ。ここから出ていくのだ」


 無慈悲な王の言葉に、ネルはぐっと顔をあげた。滲む視界で王を睨む。


「ひとつだけ発言をお許し願えないでしょうか」


 表情を少しも動かさない王が「許可する」とだけ告げた。ネルは礼を述べ深々と頭を下げる。


「この婚約を阻害する原因が暁には、再度の婚約をご考慮いただきたいのです」


 親の仇を目の前にした孤児のごとく、ネルは見据えた。若干十八歳の小娘であるが、その翡翠の瞳には地獄の業火をも凌駕する魔力が蠢いていた。


「……そのような事態にのであれば、考えよう」


 絞り出すような王の声に、ネルは会心の笑みで応じた。





 豪奢な宮殿の廊下を、ネルは静かに歩く。紫紺のドレスを大理石の床に引きずりながら、思考を巡らせていた。


 ネルのクローバー侯爵家は王国内で最強と名高い魔法使いの家系だ。なかなか子に恵まれず、待望の子供がネルであった。

 遅くに授かった子供であったために、次は望めなかった。つまりネルが侯爵家を継ぐ予定だ。

 最強の魔法使いの家系を途絶えさせるわけにはいかず、またどこの馬の骨ともわからぬ男に侯爵家を乗っ取られても困ると考えた王家によって、この婚約がなされたのだ。


 だが、あっさりと破棄された。あまりにも容易に斬り捨てられた。


 つまり、最強の魔法使いの家系を放置してでも結ばねばならない縁談が降ってわいたことを示していた。


「私を舐め腐って下さったのは、どこのどなた様なのかしら?」


 切れ長の瞳に翡翠の宝石を持ち、透き通る白い肌を紅潮させ、艶やかな額にぶっとい青筋をたて、どす黒く変色した魔力を纏ったネルが呟いた。


「どこのビッチか知りませんが、私に屈辱を与えたお礼はしっかり返さねばなりません」


 赤い果実を思わせるぷりっとした唇がぐにゃりとひん曲がる。歪んだ顔ですら妖艶な美しさを誇るネルが囁いた。


「よろしい、全てを腐海に沈めて差し上げましょう」

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