2-3

 ――あ、なんで俺……。

 そこで陽史は、《派遣メシ友》を頼んでいるからには、緒川が何も抱えていないなんてことはあり得ないとようやく気づく。里帰り出産中なら、妻のいない寂しさは感じても、それは一過性のものだろう。推測でしかないが、じきに帰ってくる妻と息子がいるのだから、一人で食うメシに根本的な寂しさや虚しさを感じるとは、あまり考えにくい。

 どうして気づけなかったんだろうと思う。

 七月に喜多に代役を頼まれたときも、今日になって再び頼まれたときも、だからこその《派遣メシ友》だとわかっていたから断ったし、わかっていて緒川のもとに出向いた。

 なのに、のん気にもイクメンだなと思っていたなんて、バカすぎる。

「すみません、緒川さん……。すみません」

「え、いきなりどうしたの」

「……いや、喜多さんからどう聞いてるかわかりませんけど、俺、緒川さんとのメシ友を一度断ったと思うんです。そのとき喜多さんは名前を言いませんでしたけど、時期的に考えて緒川さんとのメシ友を頼みたかったんだと思います。それに、思えばあのときの喜多さんはいつもと違って何か考え込んでるようでした。今日だって切羽詰まった感じで代役を頼んできて……。破天荒なあの人が『自分でも頑張ってみたが』って言ったんですよ。なのに、緒川さんが話してくれるまで何も気づけなくて、俺……俺――」

「泰野君……」

 その先は二人とも、言葉にならなかった。

 緒川も陽史も、子供を授かり家族になっていくこと、メシ友に会うことを軽い気持ちで考えていたわけではない。きちんと気持ちを固めて向き合ったはずだ。

 けれど、蓋を開ければ緒川の家庭には緊急警報が鳴り響いていて、陽史は彼からそれを打ち明けられるまで気づけなかった。物事すべてが見事に噛み合っていないのだ。

「――喜多君とはつい最近、立ち飲み居酒屋で知り合ったんだけど」

 するとふと、緒川が話を切り出した。

「え」

 俯けていた顔を上げると、微苦笑をこぼして緒川は続ける。

「泰野君が言った通り、彼はだいぶ破天荒な人だよね。聞けば、院生ってわけでもないのに二十八歳の大学生だって言うでしょ。《派遣メシ友》なんていう変わったこともしてるしさ。でも喜多君、詳しいやり方は話しても、もう何も受け取りたくないって。そんなことをしても根本的なところは何も変わらないのにって言うんだよ。それから、それを気づかせてくれた子に負けないように頑張るとも言ったかな。誰かのために一喜一憂してるその子のことを羨ましそうに話してさ。で、今までの自分にすごく落ち込んでた」

「それって……」

「泰野君のこと以外にないでしょ」

 だから、君が気に病むことじゃない。

 そう言うと緒川は陽史の頭に手を置き、わしわしと髪の毛を掻き回した。

 それから、ふと合点がいったように続ける。

「喜多君が言った『自分でも頑張ってみた』って、たぶんこの話を聞いて何も言えなかったことじゃないかな。これまではメシ友の話に相づちを打つだけだったそうだけど、誰かのために心を砕いて寄り添おうとする泰野君の姿から学んだんだろうね、それだけじゃダメだって。でも結局、喜多君は何も言えない自分を知った。それでも、こんな俺なんかのためにできることを探そうとしてくれた。……何か考え込んでるようだったって、きっとそういうことでしょう。たまたま知り合っただけなのに、本当にありがたいことだよ。もちろん、こんな平日の夜中に酒に付き合ってくれる泰野君だって」

「緒川さん……」

 今の話が本当なら、あの喜多にも何か心の変化があったということだろうか。

 最初は、いい加減卒業するために自分の代わりを探していた。何度剥されても懲りずに掲示板で募集をかけ続けたり、それを使って陽史を呼び出したこともある。けれど、芳二と彩乃に対して何かできることはないかと模索する陽史をたびたび目の当たりにして、喜多の心境にも少しずつ何かしらの変化が訪れ始めていたのかもしれない。

 決定打になったのは、この《派遣メシ友》の在り方を〝誰かと一緒にメシを食うこと〟そのものが目的になっているように思えてならないと訴えた陽史だろうか。

 その頃と並行して、喜多は緒川と知り合った。緒川が抱えている根本的な寂しさを知って、陽史のようにどうにか解決策を見い出そうと模索して……。もしもそんな矢先の訴えだったのなら、あれから半月以上、緒川のことと自分の就活に頭を悩ませ出口を見つけようとしていた喜多の頑張りは、これまでのことを思えば十分すぎるかもしれない。

 緒川とは、どんな寂しさを抱えているのかも、どういう人なのかも聞かされないまま、こうして喜多を介して会うことになったが、もし何もできなかったとしても喜多の気持ちを引き継ぎ、彼と彼の家族の向かう先を見続けることくらいなら、あるいは――。

 陽史は徐々に、そう気持ちが傾きはじめていった。

 ひょっとしたら、そうしないと陽史自身の気が済まないのかもしれない。

 ほとんど騙されるような形で始めた《派遣メシ友》は、五ヵ月足らずで陽史の心や生活に大きな変化を与えた。生活態度を改め自分を律することだったり、人のために一生懸命になることだったり。そうしているうちに、和真に顔つきが変わったと言われるほど。

 途中まで気づけなかったが、今日だってメシ友をやめてからぽっかり穴が開いたようだった心が久しぶりに埋まったような気がした。胸のモヤモヤもチリチリとした焦燥感も相変わらずなものの、それでもそのとき感じた充足感は陽史を再びやる気にさせたのだ。

 ――『俺には《派遣メシ友》で陽史が何をやりたいか、本当はお前自身が一番よくわかってるように見えるよ』『自分の気持ちなのに自分が一番わかんないときってあるからな』

《派遣メシ友》をしていると打ち明けたときの和真の言葉が耳に蘇る。

 その答えが喉まで出かかり、けれど言葉にするには難しかった。

「明日香と息子の話に戻るけど」

 陽史の頭に置かれたままだった手を下ろすと、緒川は噛みしめるように言う。

「本当は戻ってきてほしいし、また三人で暮らしたい。当たり前だよ、俺がこの女性(ひと)だって選んだ人と、その人が産んでくれた俺の分身なんだから。ただ受け身じゃなくて、連れ戻す覚悟と勢いで迎えに行かないといけない。何度も彼女の実家に行って頭を下げて説得して――そのあとも、明日香と息子に尽くすこと以外に道はないってわかってる」

「……はい」

「けど、また明日香に任せっきりにさせてしまうかもしれないことが怖いのも本音なんだよ。……実は育児ノイローゼ気味だったんだ、息子を産んでからの明日香は。一年の産休を取ってるけど、彼女ももうすぐ職場復帰になる。そのときになって、俺の仕事が息子が生まれる頃と何も変わらない状況だったらって考えると、とても恐ろしいんだ。家事と育児と俺の世話と自分の仕事が四重になる。犠牲にせざるを得なくなるのは、きっと明日香がこれまで頑張って積み上げてきた仕事なんだ。そうなったら、今度こそ明日香は壊れてしまうかもしれない。そうなるだけの原因を俺が作った。だから、実家でのびのび育児を楽しんでるようだって聞いて、もしかしたらそっちのほうが明日香にも息子にもいいんじゃないかって……ちらっとでも思ってしまったんだよね。完全に責任の放棄だよ。そんなことを考える自分が信じられないのもあった。もしかしたら、それが一番ショックだったかもしれない。この歳になっても結局俺は自分のことばっかかよ、って」

「……はい」

「でもそれじゃあ、何も解決しない。わかってるんだ。わかってる、わかってるんだよ。……ううっ、ごめん。ちょっともう……今日はお開きにさせてもらっていいかな」

「緒川さん……」

「ほんと勝手で悪いけど、今日はもう……」

 緒川の心中は、いつも仕事で向き合っている複雑なシステム開発の数式なんかじゃ比べ物にならないほど複雑なのだろう。説得して二人に戻ってきてもらったとしても、以前と何も変わらないかもしれない。でも、どうにか三人で家庭を育みたい――。

 陽史がわざわざ言わなくても、自分がどうしなければならないかくらい、緒川が一番身に染みてわかっている。それでもなかなか決心がつかないことがあることを、陽史は今、すすり泣きはじめた緒川の姿を通してまざまざと見せつけらたような気分だった。

「あ、あの、ベッドで寝てくださいね。……夏ですけど、風邪、引いちゃいますから」

 結局、陽史はそう言い置いて静かに部屋を出ていくしかなかった。その際、部屋の片隅に何個かの開封されないままのおもちゃが見えて、陽史は数瞬、動きを止める。

 けれど、やはり陽史も喜多と同じで、緒川にかけられる言葉を何も持っていなかった。


 緒川から返事があったかどうかは、すすり泣く声に紛れてわからなかった。

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