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 *


「いやあ、やっと大きな仕事の納入が終わったんだけど、同僚の誰も捕まらなくてね。こりゃ一人で打ち上げかなと思ってたところだったんだ。君が来てくれてよかったよ」

 そう言って心から美味そうな顔で缶ビールを煽るのは、今回の《派遣メシ友》である、緒川之弥おがわゆきやというサラリーマンだった。四十一歳、職業はシステムエンジニア。

 パソコンは普段から講義などでよく使うものの、その手のことに疎い陽史は、なんと言って労ったらいいかしばし考え、当たり障りなく「お疲れ様です」と自身にあてがわれた缶ビールを持ち上げ、乾杯しましょうと促した。「そうなんだよ、ほんと疲れたよ」と苦笑の中に充足感も滲ませながら快く応じた緒川が、また美味そうに喉を鳴らす。

 夜七時半に緒川が暮らすマンションの最寄り駅で待ち合わせた陽史は、薄手の半袖ワイシャツにノーネクタイというクールビズ仕様の緒川と連れ立ち、まずは道中にあるコンビニへと向かった。そこで酒やつまみを買い込み、自宅マンションへ通される。

 家族向けの物件なのだろう、部屋は広い3LDKだった。リビングのあちらこちらに子供用のおもちゃやぬいぐるみが置いてあり、ぶつかり防止のためにテーブルや壁の角にコーナーガードも貼られている。床にはジョイントマットも敷かれ、二畳ほどだろうか、そこを子供の遊び場にしているらしい。電車や車のおもちゃが多いところを見ると、子供は男の子だろうか。安全対策の具合から、まだまだ小さい子かもしれない。

 ――あ、でも……。

 缶ビールにちびりと口をつけながら、陽史は頭の奥に引っかかりを感じた。

 子供のものはたくさんあるのに、肝心の子供がいない。それに、母親の姿も。

 けれどすぐに、里帰り出産中なんだろうと合点がいった。おもちゃはどれも新品に見えるし、早いうちから安全対策をしておくのも、生まれてからあくせくしないで済むので心にゆとりが持てるだろう。自分では産めない代わりに、そのほかでできることを緒川は一生懸命やっているんだなと思うと自然と頬が緩んでいく。イクメンというやつである。

「ほら、手が止まってるよ。冷めないうちに食べな食べな」

「あ、はい」

 もうすぐ父親になるのだろう緒川に急かされ、缶ビールを置いて手を伸ばす。

 リビングに置かれたローテーブルの上には、先ほどデリバリーで取ったピザやサラダ、中華などが並んでいる。ほうほうと湯気の立つマルゲリータを「あちち」と言いながら手に取り口に運ぶと、絶妙に絡み合ったトマトの酸味とチーズのこってり具合が、結局一日かかってしまった部屋の掃除で疲れた体に染み入るようだった。

「何ヵ月もまともに休めなかったから、明日から一週間、有休を取ったんだ」

 そう言って、緒川は二本目の缶のプルトップに指をかける。プシュ、といい音がして、緒川はそのままゴクリゴクリと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。

「ああ、そういえば今日はまだ水曜日ですよね」

「そうだよ。憂鬱な憂鬱な平日。なに、もう夏休みボケ?」

「あ、すみません。緒川さんの前で……」

 何の気なしに口をついて出た言葉だったが、社会人の緒川には大概失礼な言葉だ。

 まともに休めないほど仕事が忙しかったというのに、その間の自分のことを振り返ると途端に居たたまれない気持ちになる。夏休みに入って時間を持て余しつつあり、そのため曜日の感覚もちょっと曖昧になってしまっていたが、仕事を持っている人は違うのだ。

 勝負スーツも買っていないし、もう始めていないとまずいだろうに、これといって就職説明会やセミナーに参加しているわけでもないのだから、居たたまれなさは一塩だ。

 そのことを改めて痛感して、陽史はバツの悪さから背中を丸める。

 ほんと、俺は一体、何をやってるんだろう……。

「違う違う、そういう意味じゃないよ。学生時代の〝今日は何月何日何曜日だ〟ってふとしたときに思い出すその感覚が懐かしかっただけなんだ。仕事柄もあるけど、俺は納期の関係で日にちで動いてるところがあるからさ。泣いても喚いても、もう二ヵ月なんていう長い休みは取れなくなるんだ、今のうちに満喫しておいたらいいんだって」

 すると緒川は、慌てた様子で自身の言葉を訂正した。どうやら他意はないらしく、その顔は学生身分の陽史を前にして必死だ。そんな緒川に、俺もあと二十年もしたら若い子を相手に学生時代を懐かしむことになるんだろうなと漠然と思う。その頃、自分は何をしているのかも、何になっているのかもわからないが、確実に歳は取っているだろう。

「あ、そうだったんですね。なんか、逆にすみません」

「いやいや、俺の言い方が悪かったんだ。さ、飲んで食べて。いっぱいあるから」

「はい」

 そうしてまた、缶ビールを突き合わせて乾杯する。

 仕切り直したあとは、デリバリーの料理やコンビニのつまみを肴に緒川の仕事の話(主に愚痴)に相づちを打つ時間が続いた。バイトもまともに続いたことがない陽史には、その苦労はまるで生き地獄のように聞こえたけれど。でも本当は、愚痴をこぼしつつも仕事に責任や誇りを持っていることを簡単に窺わせる緒川が強烈に羨ましかった。

『わしの寿命が尽きるまでには、とりあえず何かにはなってくれ』

『本当にやりたいことが見つかったら、きっと君はどこまでも強いと思う』

『陽史は本当は自分から行動を起こせるやつなんだよ』

 そのときどきに言われた言葉が、酔いが回ってきた頭にこだまする。疲労とアルコール、それにデリバリーの満腹感の中、それから宅飲みは深い時間になるまで続いた。



「……変だろう? 俺一人しかいないのに」

 やがてテーブルの上の酒も食べ物もほとんど尽きかけた頃、最後の缶ビールを飲んでいた緒川が唐突に言った。何を言われているかわからず「へ?」と目をしばたたかせると、

「里帰り出産中だと思った?」

 マットが敷かれた子供スペースを見やり、緒川が口元を歪める。

「ど、どういうことですか……って聞いても、いいですか?」

「いや、もう聞いちゃってるでしょ」

「そ、そうなんですけど……」

 陽史は途端に落ち着かない気持ちになった。ソワソワと目を泳がせながら改めてリビングを見回す。子供のものは溢れるほどたくさんあるのに、それを使ったり遊んだりする肝心の子供の姿がない部屋。母親の姿もなく、彼女の生活感も異様に薄い部屋。どこか抜け殻を思わせるそれに背筋をゾワリとしたものが這い上がってくるようで、陽史はたまらず緒川の横顔を凝視した。それ以外は、見てはいけないもののような気がして。

 妻は里帰り出産中だと。緒川は、もうすぐ父親になる前に束の間の一人の時間を使ってこれからの英気を養おうとしているんだと。そう、思っていたけれど。

 ――本当は違うんだろうか。

「出ていかれたんだ。二ヵ月前くらいかな、ちょうど六ヵ月の息子を連れて」

 すると緒川が静かに言った。そこに息子と、息子が遊ぶ様子を微笑ましく見守る妻の姿が見えているかのように、おもちゃで溢れた子供スペースに目をやったまま。

 緒川は続ける。

「さっきも言ったけど、仕事柄、常に納期に追われてるんだ。二ヵ月前はちょうど今回のシステムの納入の山場でさ。一年がかりのシステム開発でもあって、妻にはそもそも、息子がもうすぐ産まれるって辺りからずっと心細い思いをさせてたんだ。……結局、出産にも立ち会えなかったし、それからの育児も任せっきり。一番頼りたいときに仕事にばかり気を取られてたんだから、まあ、どう考えても嫌気を差されて当然だよ」

 そう一気に吐き出すように言うと、勢いをつけて缶ビールの残りを飲み干した。

「そんな……。え、連絡は? 連絡は取り合ってるんですか?」

「電話もメールも繋がるから拒否はされてない。けど……」

 急き込んで聞くと、緒川は力なく首を振って自嘲気味な苦笑をこぼした。

 けど、の続きはきっとこうだ。――妻からの連絡はない。

 結婚や家庭のことはまだまだわからないが、緊急事態であることだけは陽史もひしひしと感じる。二ヵ月帰らない妻と子供。その喪失感は、一体どれほどものか。

「ただ、親御さんからは、ちょくちょく連絡をもらってるんだ。きっと妻の――明日香あすかっていうんだけど――明日香の目を盗んで息子や彼女の様子を伝えてくれてるんだと思う。ハイハイができるようになったとか、つかまり立ちができるようになったとか、今何本歯が生えてきたとか……息子のこともそうだけど、育児を楽しんでる明日香の様子も」

「親御さんからは、なんて?」

「明日香も意地を張ってるだけだから、迎えに来てやってくれって言われてる。あと、仕事が忙しいのはわかるけど、家庭を持ったからには、それを理由にしてはいけないとも言われたよ。仕事だけしていればよかった独身時代とは違うって。明日香が息子を連れて出ていったことがわかったその日に電話したら、出たお義母さんに泣いて怒られたよ。そのときは言葉がなくてね……。本当にその通りすぎて、何も言えなかった」

「そう……でしたか。すみません、立ち入ったことを聞いてしまって……」

「いや。話したのは俺だから。誰かに聞いてほしかったのもあるし。逆に申し訳ないよ、こんなことを聞かせて。泰野君は俺みたいにだけはならないようにしなよ? 三十九でようやく結婚できて子供も生まれても、歳だけ大人なこんな男なんて嫌だろ」

「いえ、そんな……」

「いいよ、無理してフォローしようとしてくれなくても」

「……っ」

「……」

 それから部屋には、しばらくの沈黙が落ちた。陽史も言葉がなく、ただ沈痛な面持ちで子供スペースに目を向け続ける緒川の横顔を黙って見ていることしかできない。

 一昨年結婚したということは、おそらく息子は第一子だろう。

 その歳で初めて授かった我が子なのに、結局仕事のほうを優先してしまった自分。育児に家事に目が回るような忙しさの妻が精神的にも体力的にも一番頼りたかっただろうときに、妻の気持ちを顧みる余裕がなかった自分。過ぎてしまった時間はもう戻らない。できてしまった溝は、だからこそ一長一短ではなかなか埋められない。

 緒川のその後悔が陽史の中になだれ込んでくるようで、ともすれば窒息しそうだ。

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