2-1
それからどこか心に空白を抱えたまま、七月が過ぎ、八月になった。うだるような暑さが続く中、今日も元気に蝉がミンミン、ジージーとその命を燃やして鳴いている。
喜多が寄生しているプレハブ小屋ほどではないが、あれからどうにもやる気が起きずに家事を溜め込んでしまっている陽史の部屋は、あちらこちらに物が散乱していた。
足の踏み場ならまだあるから、片付けは次でいいか。
そうしているうちに、部屋の中も陽史の体たらくもあっという間に逆戻りだった。
「あー、やる気ねえなー……」
ベッドに仰向けに寝転がったまま、陽史はぼんやりと天井を見つめる。
そのやる気のなさの原因は、もうわかっていた。
――自分からもう無理だと言ってやめた、《派遣メシ友》。
やめたら少しは気が楽になるかと思ったが、すっかり元に戻ってしまったということは、きっとそういうことなのだろう。ただ陽史はそれをどうしても認めたくなかった。
これまで通り嫌になったからやめたわけではなく、誰かの人生に介入するようなこと、そのものに荷の重さを感じて関わることから身を引いた――それが自身のやる気のなさと明らかに直結していることを、陽史はどうしても認めたくないのだ。
だってこれじゃあ、何ができるわけでもないのに続けたいと思っているのと同じじゃないか。そう思えば思うだけ、陽史の生活環境は乱れを大きくしていった。
……今まで通りの生活に戻っただけなのに。部屋だって、片付いているより散らかっているほうが逆に居心地がいいのに、どうしてこんなに落ち着かないんだろう。
そう自問してみるものの、原因がわかっているだけに、胸のモヤモヤもチリチリとした焦燥感にも似た感情も、陽史は邪魔で邪魔で仕方がないような気分だ。
――と。
ふいにピリリリとスマホがメッセージの受信を知らせた。手元に投げ出すようにして置いてあるそれを緩慢な動作で手に取り、帰省中の和真からだろうかと内容を確める。
が。
「はあ!?」
陽史は思わず画面に見入ったままガバリと身を起こした。信じられない思いで五回は送られてきた文章に目を通し、それから「はああ……」と盛大なため息を吐き出す。
【これで本当の最後だ! 泰野! どうか俺の代わりに行ってくれ!】
送られてきたのは、そんな一文だった。もちろん、相手はあの人以外にあり得ない。
彩乃とのメシ友の際、彼女と連絡が取れる環境が欲しくて喜多と番号の交換をしたことを今さらながら後悔する。代わりにと言うからには、派遣メシ友で間違いないからだ。
「もしもし! どういうことですか!?」
陽史はたまらず喜多に電話をかける。
意味がわからないし、今まですまなかったなと言ったあの言葉は嘘だったのかという話だ。あんなに潔く去っていったのに。それからもしばらく頭を上げられなかったのに。あの日の自分たちを思うと、なんだかもうガックリだ。……それが喜多秋成という男なのだろうけれど。それでも自身の体面を保つため、陽史の語気は強めだけれど。
『すまん、今から面接で詳しく話す時間がないんだ。ただ、自分でも頑張ってみたが、泰野のようにはいかなかった。とにかく、場所と時間だけ送らせてくれ。俺だって泰野の気持ちはわかってるつもりでいる。だから、あとのことはお前の好きにしてくれ!』
「あっ、ちょっ――」
『じゃあな!』
しかし喜多は、もののワンコールで出るなり早口でまくし立てるだけだった。
用件だけを一方的に伝えるとブチリと通話が切れ、すぐに場所と時間を記したメッセージを送ってくるなり、本当に時間がないのだろう、電源も落とされてしまった。
そこで陽史は、喜多の背景がやけにシーンとしていたことにようやく気づく。そういえば、全然潜めきれていなかったが声のボリュームも普段より小さかったように思う。
どうやらすでに面接会場にいるらしい。が、言っていることも支離滅裂で、どうにも陽史の気持ちもわかっているようには感じられないのが喜多が喜多たる所以だろう。
何かと思えば人騒がせな……。いや、面接は大事だけれど。
「……」
それでも引っかかるのは、喜多の『自分でも頑張ってみた』という台詞だ。泰野のようにと言ったからには、喜多もメシ友に対して〝一緒にメシを食うこと〟以外のことをしようとしたり、していたことになる。その相手は先月、断ってしまった人だろうか。
あえて踏み込んでいかなかった喜多が……。そう思うと、急いで打ち込んだだろう、ひらがなと誤字だらけの待ち合わせ場所に途端に重みを感じるから不思議だ。
喜多では上手くいかなかった。だから藁にも縋る思いで陽史に白羽の矢を立てた。《派遣メシ友》を二度経験した陽史なら。いや、まだ経験が浅い陽史だからできることがあるかもしれないと、もしかしたら喜多はそんな思いで陽史と連絡を取ったのかもしれない。
「あとのことは俺の好きにしてくれって言われても……」
とはいえ、こちらはすでにやめた身だ。まだ引きずっている自分に、案外俺にも諦めの悪いところがあったんだなと思ったのも束の間、同時に女々しさも感じている。
……単に、怖気づいたんだと思う。
成功体験のあとの失敗に。無理やりする説得の無謀さに。根底にある寂しさに踏み込んでいくことに。その恐ろしさを知って、足が竦んで動けなくなってしまったのだ。
「……どうすりゃいいんだよ」
口の中で声を転がし、陽史はぐるりと自分の部屋を見回す。途端、脱ぎっぱなしの服や台所のシンクから溢れた食器が目に入り、チリ、と胸の奥が焼けるような痛みが走る。
「っ……」
芳二と関わるようになって徐々に意識が変わっていき、人に見せられるようになった部屋。けれど怖気づいて身を引いてからは、すっかり逆戻りしてしまったこの部屋。
どちらが居心地がよかったかなんて、考えるまでもなかった。
「――よしっ」
しばらく逡巡したのち、陽史は弾みをつけてベッドから降りた。片っ端から脱ぎ散らかした服をかき集めて洗濯機に放り、その間にシンクの食器を洗いはじめる。
次は掃除をしようとクーラーを止めて窓を開けると、むわりとした熱気と蝉の声のシャワーが同時に陽史に襲いかかった。「あっちー……」と顔をしかめたのも束の間、ギラギラとした真夏の太陽が部屋に強烈な熱さと陽の強さをもたらし、陽史の体を汗ばませる。
けれど陽史は、それがかえって気持ちよかった。そのまま黙々と部屋の掃除をする。
ひらがなと誤字だらけの待ち合わせによると、メシ友と会うのは夜になってかららしい。今はまだ午前中だ。その頃には、部屋も心もすっきりしているだろう。
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