3-1
それから二日――。
どうにも家族の顔が見たくてたまらなくなり、陽史はなけなしの仕送りを深夜バスの代金に変えて帰省していた。直近で帰ったのは昨年の正月だから、一年八ヵ月――約二年も帰っていなかった事実に驚愕するとともに、胸の奥が抉られるようだった。
JR花巻駅前のバスターミナルを降りると、迎え待ちの車が何台か横付けされているロータリーに懐かしいクリーム色の軽自動車がエンジンをかけたまま停車していた。近づき後部座席に荷物を置くと、陽史は迷わず助手席に乗り込む。
「……おかえり」
「た、ただいま……」
お互いに大いに気恥ずかしさを感じながら二年ぶりにぎこちなく笑い合うと、ちょうど仕事が休みだという母の
万里子は長く建設会社の事務職員をしている。仕事は基本的に月曜から土曜までで、日曜日しか休みがないので、そのぶんは平日にシフトを組んで休みを取り合っている。
一昨日は深夜まで飲んだため、陽史の目覚めは昨日の昼間だった。やや二日酔いの頭で実家に電話をかけ、出た祖母に明日帰ろうと思うと伝えると、それなら万里子がシフト休みだから駅に迎えに行くように頼んでおくと、そうして今に至っている。
深夜バスで凝り固まった体に、開けた窓から入ってくる花巻の空気が心地いい。車窓を流れていく建物や緑が濃い田園風景は実に懐かしく、否が応にも〝帰ってきたこと〟を陽史に実感させる。それに、もうすぐお盆だ。墓参りにはまだ早いが、荷物を置いたらさっそく手を合わせに行こうと思う。草むしりや掃除も、ついでに。
そんなことを思いつつ、陽史は口を開く。
「……お袋ってさ、結婚してから今までの間で家出しようと思ったことってある?」
「なに、藪から棒に。ないわけないべ。今だから言えるけど」
「あ、やっぱそうなんだ」
「なしたの」
窓の外の景色を眺めている陽史の背中に、万里子のちらと窺うような視線を感じる。運転中のため一瞬だったそれは、けれどずっと背中に張り付いたままのようだ。
万里子はわかっているのかもしれない。だからどうにも家族に会いたくて帰ってきたことに。いや、その通りだから、突っ込んで聞かれたら正直に答えようと思うけれど。
「実は、バイト先の人にそういう人がいてさ。男の人なんだけど――」
そうして陽史は、緒川のことをかいつまんで話した。
妻に当時六ヵ月の息子を連れて家を出ていかれたこと。それは今、二ヵ月になっていること。自分が取る行動はわかっているのに、なかなか決心がつかないこと。
「……奥さん、育児ノイローゼ気味だったらしいんだ。そうなるくらい追い詰めさせてしまったから、わかってても顔向けできないのかもしれない。その人、もしかしたら実家にいるほうが二人にとっていいかもしれないって一瞬でも思った自分が信じられなかったって。その負い目をずっと一人で抱えてたんだと思う。……泣いてさ。だから、こういうときにお袋ならどうしてもらったら帰ろうと思えるか聞きたいんだ。四十一の男がわかってても決心がつかないんだ、経験がない俺には、何も言えるわけないじゃん」
緒川とメシ友をしてから心に溜まり続ける一方だったモヤモヤを一気に吐き出すように言ってから、陽史は自分でも、バイト先って……と少し苦笑がもれた。
バイト先に変わりないが、やっているのは《派遣メシ友》なんていう、親に言うにはちょっと気が引けてしまうようなものだ。もちろん、けしておかしなバイトでもないし、危ないバイトでもない。これまで会ってきたメシ友たちも、発案者の喜多も、それぞれ違った面で厄介な性格をしていたり抱えてはいるが、基本的にみんないい人たちだ。
ただ、一聞しただけでは万里子も父も納得し兼ねるだろう。
《派遣メシ友》の在り方に疑問を抱き、そのうち怖気づいていったんは身を引いたにも関わらず、また首を突っ込んでしまった手前、自分でも世話ないなと思うけれど。でも、せめて緒川と彼の家族に対して何かできることはないかと自分なりに模索しはじめていることも本心からの感情だ。緒川の涙には、どうしたって胸を揺り動かされる。
その緒川に、あの喜多が――と教えてもらったことも大きい。
自分ではこれといって意識していたわけではなかったが、たびたび自分のもとへ相談に来る陽史から彼が何かを感じ取っていたことを聞いて心が動いたのだ。……とかなんとかもっともらしい理屈を並べても、結局は一度はやめた《派遣メシ友》を再び請け負うことにした時点で、またこんなふうに思い悩むだろうことはわかりきっていたけれど。
「――あんたがちょうど三歳になった頃だったかな。母さんね、一回だけ。たった一回だけ、あんたを連れて本気の本気で家出しようとしたことがあるんだよ」
すると万里子が唐突に言った。
「え、マ、マジで?」
思わず万里子の横顔を凝視する。家出しようと思ったことはあると聞いた。でも、本気で家出しようとしたことがあっただなんて、にわかには信じられない。
記憶の中の万里子と父の
その視線を受けた万里子が、懐かしそうに目を細める。
「マジ。大マジ。理由は忘れちゃったけど、たぶんもう、いっぱいいっぱいだったんだろうね。昔は一年なんて産休を取れる制度もなくて、産んで三ヵ月とかでフルタイムで復帰したんじゃなかったかな。本当に何でもないときにふっつりと何かの糸が切れたような感覚がしたんだよ。そうなったらもう、あ、もうダメだって、そっちにばっかり気が行っちゃってねえ。あのときはこうやって笑い話にできる日が来るなんて思えなかった」
そう言うと、しかしまた唐突に「ふっ」と笑う。
「そしたらあんた、母さんが荷物をまとめる横で自分のリュックにおもちゃとかお菓子を詰め込むなり『母ちゃん行こう!』って、まるで遠足気分なわけ。そのとき、こりゃできないわって思ったもんよ。まあ、早い話が、あんたに助けられたんだわ」
「うわ……。三歳の俺……」
陽史は思わず顔を覆った。急激に顔に熱が集まり、耳たぶも異様に熱い。
物心がつくかつかないかの頃だっただろうとはいえ、全部にいっぱいいっぱいだった万里子にそんなことが平気で言えた当時の自分が途方もなく恥ずかしい。すっかり忘れているからなおさらだ。逆に、よく遠足気分の陽史の言葉で思い留まれたと思う。
「でもね、あんたのその言葉があったから、また糸が繋がったんだよ。その一部始終を見てたのは仏壇の写真だけ。だから家族の誰も母さんが本気で家出を目論んだことは知らない。でもそのあと、何か察したんだろうね、父さんとちゃんとした話ができたよ」
「そっか……。なら、よかった」
いや、あまりに恥ずかしすぎて自分のことだけで言えば全然よくない。が、万里子が陽史に嘘をつく理由も動機もない以上、すべて本当のことなんだろうけれど。
そんな陽史の心中を知ってか知らずか、万里子はカーブにハンドルを傾けながら言う。
「だからさ、母さん思うんだけど」
「……うん?」
「あんた、もうそっちに帰んなさい」
「――え?」
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