1985年 秋 智治11歳
学校から帰り、ランドセルを投げ捨てて遊びに行こうとすると、一枚の枯れ葉も供えられている仏壇に手を合わせていた曾祖母が智治を呼び止めた。
「いいかい……紫の雲が夕日にかかるときは、外に一人で出たらいけないよ……」
曾祖母はもごもごと口を動かしながら普通なら聞き取れないような喋りで智治に諭した。いつものことなので注意しなくても智治は何を言っているかは理解していた。
「うん、わかってるよぉ!」
早く遊びに行きたくて貧乏ゆすりのようにそわそわしていた智治は、そう言い残して家を出た。
数日前、この小さな田舎町に引っ越してきた転校生の家には、テレビゲームとそのソフトが山ほどあり、智治が見たことないものをたくさん持っていた。仲のいい友達数人と毎日のように押しかけては転校生とゲームを通じて仲良くなっていった。
だが子供たちはゲームに熱中するあまり、遅い時間まで帰宅しないことが頻繁になってしまい、それぞれの親が叱っていた。智治も同様だったが懲りることなく続けていると、昨晩、とうとう父親にゲンコツをもらい閉め出しを喰らった。
それでも今日も三人でお邪魔して遊び、時間を忘れて夢中になった。一人は門限が厳しく少し遊んですぐに帰り、もう一人も習い事で帰って行った。
部屋の中がずっと明るいため気付かなかったが、いつの間にか部屋の窓から差し込む日差しがオレンジ色になっていたので、時計を見ると帰宅時間ぎりぎりになっていた。
そんなとき、転校生の母親が子供部屋に顔を覗かせた。
「智治くん、いつも遊びにきてくれてありがとうね。今日はよかったらウチでご飯を食べていって。お家にはおばさんが電話しておくから」
さすがに昨日の件で少しは懲りたのか、青ざめた顔で智治は首を振った。
「早く帰らないとトーチャンに怒られる……」
「そうなの……気を付けて帰ってね」
いつもなら遅くなっても楽天的に振る舞っている智治の様子が目に見えて違うことから察し、それ以上は引き留めようとしなかった。
慌てて靴を履いて飛び出した。
田んぼも多く残る田舎町。青から黄金色に色づき始めた稲穂が風に頭を撫でられ揺れている。智治は自転車でロクに舗装も済んでいない砂利道を走った。西に進む少年の目に、紫の雲がかかる夕日が眩しく視界を奪おうとする。
ヒグラシやヒヨドリに混じって外界に出遅れ鳴いていた僅かな蝉の声がする。しかし、御影神社に近づくとそれがピタリと止んだ。
智治は自転車のブレーキをかけ一旦止めて神社を見た。赤く塗られた鳥居と奥に佇む古びた社。神社を覆うように広がる雑木林。何度も使っているので雑木林の中を抜ける方が道なりに行くより早く帰れることを知っていた。それに夕日が眩しくて道を走るのが鬱陶しかった。
ハンドルを切って神社の中へ、そして雑木林の中へと立ち漕ぎで自転車を走らせる。
枯れ葉を踏む音、枯れ枝を折る音、風に揺れ葉を磨り合わせる木々の枝。しかし虫の鳴き声も鳥の声も聞こえない。ただ智治が自転車を道なき道を進む音だけがする。
すると、行く先に白い着物の女性が手を付き足を崩して雑木林の中で座っているのに気が付いた。ブレーキをかけるが枯れ葉にタイヤを取られてスリップしてしまい、立ち漕ぎしていた智治は自転車から投げ出されるように転がった。
自転車は古木にぶつかり、智治も木の根や太い枯れ枝で腕を擦りむき、膝もぶつけてしまった。
痛みに涙を浮かべて起き上がろうとすると、白い着物の女性も柔らかな動きで揺れるように起き上がった。智治は痛みを忘れるほどその女性に目を奪われた。女性とは思えないほど背が高い。髪はとても長く白く真珠のような不思議な輝きをしており、同じように白い着物にはまるで鱗のような銀の波模様が描かれている。
智治を見つめながら近づく。その瞳は青白く少年をじっと見据えている。女性は智治の前に立つと、そっと手を差し出した。透き通るように細く白く長い指。
格好悪いと思いすぐに立ち上がったが、女性はなおも手を出したまま智治をその鋭い双眸で見つめている。
どうしていいのか分からなかったので、智治もその手を握ろうと右手を持ち上げる。が、今度は横から毛深い大きな手が智治の手首を掴んだ。驚いて横を見ると、丸い大きなサングラスをかけ口の周りに髯をたくわえファーの付いたコートを着た浅黒い肌の小太り男性。
小太りの男性は手首を引いて女性から距離を置き、後ろに智治を隠すように彼女へ顔を向ける。まるで睨み合うかのように二人はジッと無言のままである。
訳も分からず少年が二人を交互に見ていると、男性は屈んで掴んでいた右手に枯れ葉を一枚持たせてから智治の手首を放した。すると途端に女性は表情のなかった美しい顔を酷く歪めて男性へ敵意を露わにした。女性とは思えないほどの恐ろしい形相とその雰囲気に智治は恐怖する。
男性が智治の胸を押したことで、少年は一気に怖さが増して来た道を戻るように逃げ出した。
頭の中は真っ白になり怖さで胸が張り裂けそうになっている。顔を引きつらせて必死になって走る。息が切れて足がもつれてもただ走った。雑木林から抜け、神社の鳥居を抜け、呼吸しても押し返されるように肺に空気がまったく入らない状態でも走った。
無我夢中で走った智治はついにこけた。這いつくばるように泣きながらもがいていると誰かが智治の肩を掴んだ。まさに心臓が止まるような瞬間を味わった。だが、顔を上げて見たその顔は、畑仕事に出ていた祖母や母親たちであった。
「智治っ、あんた、大丈夫かね!?」
智治の表情も真っ青だが、祖母も母親も、昨晩あんなに智治を真っ赤な顔で叱った父親すらも顔が青ざめている。
智治は力の入らない指で祖母に抱きつき、歯を鳴らしながらボロボロと泣いた。
次の日、智治は曾祖母が亡くなったことを聞かされた。
曾祖母は畑仕事から帰ってきた祖母や母親たちに「智治を迎えに、智治を迎えに」と切羽詰ったように話し、母親は事情も分からぬまま思い当たるクラスメートの家に電話していき、電話番号を知らない転校生の家へは他で聞いてからなので最後だった。
電話をしている間も落ち着きのない曾祖母は、仏壇に供えていた枯れ葉を持って家から裸足のまま一人でいつの間にか探しに出て行ったようだと祖母が話す。
家族で行方の分からなくなった曾祖母を探している内に、這いずっている智治を見つけた。
その後、町の人が用水路に落ちて沈んでいる曾祖母を見つけて引き上げたが、その時にはすでに息をしておらず病院で死亡を確認された。
祖母は曾祖母から小さいときに聞かされた話を智治に聞かせた。
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