紫雲

葵 一

2011年 春 智治37歳

 帰宅すると一番最初に出迎えてくれる靴箱の上に置かれた、信楽焼きの狸に向かい手を合わせて礼をした。

「ただいま」

 それから帰宅の言葉。しかしなにやら家の奥から妻の怒鳴り声が聞こえる。

 靴を脱いで三和土を上がり、板張りの軋む廊下を歩いて居間に顔を覗かせると、息子の奨也が立ったまま妻に怒られべそをかいていた。

「どうしていつもいつもお母さんの言いつけが守れないの!」

「ただいま」

 もう一度声をかけると苛立ち収まらぬ妻――多恵が男のほうへ向いて溜息を洩らした。

「ああ……お帰りなさい。ごめんなさい、気が付かなくて」

「いいよ。どうした奨也、またなんかやったのか」

 男は鞄をその辺りに置いて息子へ近寄り立ったまま頭を腹部に抱いて撫でた。奨也は男の服で涙を拭いながら嗚咽を上げる。

「新しいお友達の家に遊びに行って、つい今しがた帰ってきたばかりなのよ、この子。危ないから日が暮れるまでに帰ってきなさいって言ってるのに」

 男は嬉しそうに笑って屈むと息子の背中や肩を手のひらで軽く叩いてやりながら抱きしめ、再び頭を撫でた。

「そうか、もう新しい友達が出来たのか。楽しいんだから遅くなっても仕方ないよな」

 奨也は泣きながら二度頷く。

 男の名前は片桐智治。証券会社で十数年働いていたが、息子はおろか妻の顔さえもロクに見ることのできない日々の激務や都会の喧騒に疲れ、退職して彼の故郷である田舎町につい一週間前に移住してきたばかりである。息子は九歳ながら転校することに愚痴も漏らさず、妻も夫の苦労を分かっていたので移住に賛同した。

「お父さん甘やかしすぎだからっ、危ない事件に巻き込まれたらどうするの!」

「まぁ、そういう心配もあるが、お父さんの勝手で転校させたんだし、新しい土地に馴染もうとしてるんだからもう少し大目にみてやろう」

 多恵は「もぉーっ!」と牛のように息を荒くして台所へ行った。智治は苦笑いしながら息子の肩を両手で優しく持って諭す。

「お母さんは奨也が心配だから怒ってるんだぞ。前に住んでたところで奨也みたいな小さい子が危ない目にあってる事件がいっぱいあったからね。お母さんも引っ越して気持ちがまだ落ち着かないから、みんながここに慣れるまで奨也もお母さんに優しくしてあげて」

 奨也は手の甲で涙や鼻を拭いながら俯いたまま頷いた。

「よし、いい子だね」

 息子をもう一度抱きしめた。

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