たぶん、役に立たない『経理入門』(もちろんフィクションです)

@kanjjsan

第2話人生、バランスしてます?(資産と負債の違いー貸借対照表)

「あたし、眠くなっちゃったー」

忙しそうに端末を叩いている北所沢ふみの傍らに、隣の課の浅走寺明子がいつもの甘える声で近づいてきた。この時間の彼女の常套句だ。

二人は同期入社で、端末に向かっている北所沢ふみは計理課、声を掛けた浅走寺明子は回収課に属している。どちらも経理部の組織下にある。

二人は専門学校出身で、外資系企業では珍しく新卒で採用された同期である。二人ともキャビンアテンダントを目指して就職活動をしていたらしいが、競争が激しく、最終的にこの会社へ落ち着いたというところだ。

一般的に外資系企業は、中途採用が主で、新卒を採用することは稀である。

国内企業が新卒で大量採用し、長い期間と莫大な教育訓練費をかけて一人前の会社員・社会人として育成していくのに対し、外資ではもともとそんな発想はなく、トンビに油揚げの如く出来上がりのおいしくなったころを見計らって中途採用をする、というのが従来のやり方だ。

海外へ進出するにあたり、短期的な経営戦略で利益目標を立てる。だから即利益に繋がらないところにカネや時間をかける気は毛頭ない。長期的ビジョンに立った先行投資で企業や人を育て上げていくといった従来の日本企業の経営思想は、崩されかけている。M&Aが日本企業にも浸透してきている傾向も同じ流れだ。既存のノウハウやシステムを確立している企業を呑み込んだり、買収するほうが手っ取り早いし、採算計画も立てやすいからだ。


と、いうわけで、例外的に採用された彼女たちの新入社員研修は、2週間足らずのとって付けたようなものだったから、学生気分が抜けるかどうかのうちに終わってしまった。その結果のせいか、会社もそれ以後新卒の採用を控えている。


今年で3年目になる二人は、外見も性格もまったく対照的であるが同期としての意識は強く仲が良い。

明子は東京の下町育ち。よく言えばしゃきしゃきして思ったことは何でも口に出していってしまう、裏表のない性格で、悪く言えばノー天気でまだ社会人という意識が薄い。毎年地元の祭りで行われるカーニバルに出ても充分目立つ体形だ。

ふみのほうは反対に小柄で、ちょっと見、若いころのタケシタケイコ似の端整な顔立ちで隣県から都内にある(とはいえ、場末と言われるような地域にある)この会社までたっぷり時間を掛けて通勤している。


さて。

月次の締めが迫っている北所沢ふみにとって、今は明子の相手をしている暇がないのは、傍目で見ている上司の小千谷(おじや)計理課長にもよくわかる。明子が話しかける度に、ふみのテンキーを叩く指先に力が入っているからだ。

「あっこは(仲間内での明子の呼称らしい)、もう自分の仕事のほうは一段落したの?」

と、たまにお義理で返す言葉も端末のスクリーンを見つめたままだ。それでも相手の明子は、ふみの置かれている状況に気づいていない。いや、故意に気づこうとしないのかもしれない。

「さっき、お客のところに督電(支払期限が過ぎている顧客に掛ける督促の電話連絡のこと)したの。でも、あったまあきちゃってさー。オバサンがでたんだけど、このあいだと同じことを聞くのよねえ。『だからあー、そうじゃなくてえー』って言ったんだけど、ぜーんぜん判ってないの。もう面倒くさいから『もう一度請求書のコピーを送ります!』って電話切っちゃった」

このころになると、彼女の大きな声と笑い声で小千谷だけでなく、周りの社員たちも注目し始める。しかし、彼女の持って生まれたおおらかさからか、或いは周りの社員たちの寛容さからか、その場の空気に冷酷さは感じられない。

午後2時のオフィスに流れるけだるい雰囲気に恰好のブレイクとして利用されているのかもしれない。いつもならこのあたりで左川統括(請求事務課・回収課兼務)課長の水が入るところだが、生憎、息子真之介の小学校の父兄参観で休みを取って不在だ。


会話はまだ終わりそうにもない。

「ふみ、その伝票に書いてある番号は何なの?」

「ああ、これ?アカウントナンバーで、うちの会社では1000番台は《資産》で、2000番台は《負債》勘定になっているの」

ふみは、相変わらずスクリーンを見つめたまま応えている。振り返ってしまえばさらに、自分の作業が邪魔される確率が高いのは判っている。

「シサンって、入社のとき、薮中人事部長が『会社の資産は、ヒト、モノ、カネ。皆さんも今日から会社の大きな資産です。《人在》や《人材》ではなく優れた《人財》になるよう頑張ってください』って言った、そのシサンのこと?」

「うん、それと同じことじゃない」

一瞬、ふみには(四散)、(死産)という漢字が脳裏をよぎったが、慌てて頭の中のESCキーを押して消去した。

「それじゃあ、あたしもシサンとしてどこかに載っているのかなあ?・・・・・・あっ、わかった!それであたしの社員番号は1983なんだ」

明子は胸のIDカードを指差しながら合点した。

「???」

(社員番号は累計だから、これから入ってくる人は全部2000番台になってしまうってことまで判ってるのかしら?)

ふみは、二人の友情に一抹の不安を感じ始めた。


浅走寺明子は、その後2年半ほど在籍後、地元の会社経営の二代目と結婚し、双子の子宝にも恵まれ、いわゆる玉の輿に乗った。夫の会社も順調で、明子にとっては文字通り大きな資産を獲得し、幸せな日々を送っているらしい。


貸借対照表はその名の通り、資産側、負債側がバランスする形で表示される。また一定時点の、たとえば3月末の決算時点での資産、負債の残高を示す意味での『バランスシート』でもある。


世の中、順調にいっている人がいる一方、苦労している人も同じぐらいいる。また、人生は途中、山あり河ありでも終わってみれば誰にも結構公平にできている、ともいう。

幸せな生活を送るという大きな資産を得た明子に対し、彼女の夫は、果たして妻をどのくらいの資産、あるいは負債として計上しているのか、それは彼以外の第三者には、推測できない。


北所沢ふみは、明子よりも長く勤めた後、介護の職業に就くため転職し、いまでも施設で働いている。たしかに、キャビンアテンダントも介護の仕事も人の世話をすることでは共通している。

会社を辞めるとき、山下に

「次長が将来介護を必要になったときは、私の所へ来てくださいね、ちゃんとケアしますから」と挨拶していった。うれしいやら、悲しいやら、自分の老後を想像すると複雑な気持ちだった。

その後、ケアマネージャーの資格も取り頑張っているとの近況報告は届いたが、結婚のほうのニュースはまだ聞いていない。


ちなみに会社の財産を表記する貸借対照表には、《人財》も《人材》も《人在》も記載されない。


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