転結

第56話

 今年の夏は去年よりも暑い。

 そんな感想をいつも誰かが口にする。


 実際にこの年の夏は例年以上に猛暑日が続き、各自治体が熱中症の注意報を町内アナウンスで流すほどだった。

 蝉がうるさく鳴きわめく午後、どこかの家に吊るされた風鈴の音が遠くに聞こえるが、それでも涼しく感じる事は無理なほど、日中の気温は高かった。


 窓の外の蝉の声を締め切られた窓越しに聞きながら、李子リコは畳の茶の間に寝そべって、天井をボンヤリと見つめていた。


 昨夜までの人生観を揺るがす程の出来事が、嘘だったんじゃないかと思えるほど、ノンビリとした午後だった。


 数ヶ月間の出来事のように感じられるが、実際のところはたった2日間だった。

 本当に濃密な2日間だった。


 この2日間の話で1本映画作れるんじゃね?


 李子リコはボンヤリと、そんな取り留めのない事を考える。


 両親が帰ってきたら、刀義トウギの事をなんて説明しよう。

 身体が半壊しているが、直す事は今の技術では無理だと真輔シンスケが言っていた。

 お構いなく、と刀義トウギが言っていたが、そんな訳にはいかないだろう。


 彼は今、胡桃クルミ京子キョウコの家にいる。

 京子キョウコが、今日ぐらいは全てを忘れてゆっくり休みなさいと言ってくれたので、その言葉に甘えたのだ。



 全てが終わった後──


 深夜帯だった為、一度全員で胡桃クルミ京子キョウコの家へと帰ってきた。

 流石に近所ということもあり、李子リコ眞子マコは自宅へと戻ったが。


 翌日遅く起きたそれぞれ。

 津下ツゲ真輔シンスケ加狩カガリ弘至ヒロシは、先日のことを詫びるために真輔シンスケの家へと行った。

 四葉ヨツハは、京子キョウコが何やら話があるとかでそのまま彼女の家に残った。

 刀義トウギ京子キョウコの家におり、そして、鈴蘭スズランの身体も彼女の家に保管されていた。


 目の前に、昨日まで一緒に居た人達が居ないと、全部の出来事が本当は夢だったんじゃないかと錯覚しそうだった。

 しかし、チラリと横目で確認すると、茶の間の真ん中の畳がベッコリと凹んでいる。


 あれが、昨日までの出来事が夢ではなかったんだと知らせてくれた。


 しかし──なんて両親に説明しよう。

 刀義トウギがこの時代に来た時に凹ませた畳。粉々に砕けたちゃぶ台。

 なんとか誤魔化す事はできないだろうか?

 両親が戻って来る前に直してしまうとか。


「お姉ちゃん、お母さんたちが戻って来るのっていつだったっけ?」

 李子リコは寝そべったまま、ダイニングのテーブルでパソコンを叩く眞子マコに問いかける。

 眞子マコはパソコンから視線をあげてカレンダーを見た。

「明後日だね」

 耳たぶを触りつつそう答えた。

「明後日かー。そうだ。お姉ちゃん、お母さんたちを空港まで迎えに行くんでしょ? 車メンテしなくって大丈夫なの?」

 李子リコは、何の気なしにそう尋ねてみる。


 庭に鎮座する真っ赤なイタリア車。

 姉がアメリカに出向になってから一度も動かされていない。

 運転狂の姉の事だから、一時的にでも帰国したら嬉々としてドライブに繰り出すかと思ったが、特にそうする様子は見られなかった。


 だった。


「あー……いや」

 眞子マコは言葉を濁す。

「たまには動かさないと……なんだっけ? バッテリーがダメになるとか何とか言ってなかったっけ?」

 そう問いかけつつも、李子リコは車には詳しくない。

 姉が垂れる車についての蘊蓄も右から左へ。いくつかの単語だけを覚えているレベルである。

「いや、大丈夫だと思うよ? それに、タクシーを使う予定だから、車はいいかなって」

 姉は、耳たぶを触りながら苦笑した。


 そんな姉の言葉にを感じてへぇーと声を上げる。

「意外。お姉ちゃんなら、絶対車で迎えに行くって言うと思ってた。だって、久々に愛車運転するチャンスじゃん?」

 そう更に言い募った李子リコに、眞子マコはニッコリとした笑顔を向けた。

「運転飽きたっていうか、もういいかなって。そのうち車も売るつもりだし」

 眞子マコのその言葉に、李子リコは慌ててガバリと起き上がる。

「なんで?! あの車、私が運転免許取ったらくれるって言ってたじゃん!」

 李子リコは姉に批難の声を向けた。


 それは昔した約束。

 あの車を姉が買った時。

 まだ小学生だった李子リコは、真っ赤でピカピカ、デザインも可愛い車を見て私も欲しいと言ったのだ。

 妹にベタ甘な眞子マコは、困った顔で李子リコの頭を撫でながら約束してくれた。

 李子リコがマニュアル車の運転免許を取ったら、この車を記念としてプレゼントしてあげるよ、と。


 李子リコは、時々、大人(スラリと背の高い美人)になった自分があの車を運転して海辺を走る妄想をして楽しんでいた。

 姉も、時々思い出した時にその約束の話をしてくれていたので、本気だと思っていたのに。


「ああ……あの約束ね。でも、あんな車、李子リコが免許を取る頃には旧型のボロ車になってるよ? それより新しい車を買ってあげるから」

 眞子マコは耳たぶを触りながら困り笑顔でそう告げた。


 李子リコは眉根を寄せる。

「……? ?」

 姉の口からあり得ない言葉が飛び出した事に驚いた。

「あの車は、お姉ちゃんの命でしょ……?」

 それこそ、耳にタコが出来るほど繰り返されて来た言葉。

 アメリカに旅立つ前日ですら、洗車しながら愛おしそうにそう言っていたのに。


「お姉ちゃん……どうしちゃったの? 最近変だよ? まるで

 李子リコは、時々感じても違和感の事を漏らす。


 姉らしくない言動。

 姉らしくない行動。

 アメリカから帰って来てからというもの、それはまるで全く違う価値観を持った別人になってしまったかと思うぐらいだった。

 それほどまでに海外での暮らしは過酷なのかと、姉が戻ってきてすぐの時は心配したぐらいだった。


「そうかな……。まぁ、私も人間だからね。考え方ぐらい変わるよ」

 眞子マコはそう素っ気なく言って、またパソコンへと向かった。

 李子リコも、そう言われればそうかと納得して畳の上に再度転がる。

 見慣れた天井を見つめつつ、両親が帰ってきた後の事を考え始めた。


 畳の事、刀義トウギの事、今後の事。

 特に、刀義トウギがいる生活。

 どんなものになるのか、全く想像がつかず──


 ふと、視界が阻まれた事に気がつく。

 頭の辺りにフラリと立つ姉が、そのまま李子リコの顔を見下ろしていた。

 逆光となり、その表情は見えない。

「お姉ちゃん……?」

 姉の突然の行動に驚いて、李子リコは目をパチクリとさせてた。


「……細かい事は気にせず、


 酷く冷たい姉の言葉に、李子リコはビクリとした。


 しかも──


「おね──」

 李子リコは起き上がろうとして──

 出来ずに再度畳の上に大の字になって転がる。

 首に鋭い痛みを感じた。

 眞子マコが、ボールペンのようなものを李子リコの首に押し当てていた。


「ついでに、車の約束も忘れなさい。眞子マコは車が嫌いになったの。運転は野蛮な行為だからやめたのよ。いい?」

 姉の言葉が、途中から変な響き方をしている気がする。

 身体に力が入らず、目を開けているのもしんどくなってきた。

 目を回した時のように頭の中がグラングラン揺れ、心臓が早鐘のように打ち始めて手足の感覚がなくなっていく。


「もう一度言うわ。車の約束は忘れなさい。そして、違和感を抱かない事。抱いても他の事を考えて追求しないこと。そして──」


 姉の言葉がハッキリと聞こえなくなってきた。


「忘れろ」


 李子リコの意識は、そこで途絶えた。

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