第40話

 リビングの入り口に立つ津下ツゲ真輔シンスケの姿を見て、

 安堵の気持ちが沸き起こる一方で、李子リコの脳裏には恐怖の感情がこびり付いて離れなかった。


 手首には、彼に掴まれた跡がクッキリと残っているし、首を掴まれた感覚もまだ消えていない。


 同い年といえど、自分より大きなに組み敷かれた恐怖と嫌悪感は、いくら消そうとしても簡単に消える傷ではなかった。


「もう、大丈夫なのかい?」

 胡桃クルミ京子キョウコのそんな問いに、真輔シンスケはコックリと頷く。

 そして、チラリと李子リコを一瞥したかと思った瞬間──


 真輔シンスケはその場に這いつくばった。

 俗に言う、土下座。


 その場にいる誰もが度肝を抜かれた。

「ちょっ……何してるの?!」

 アワアワした李子リコが慌てて床に額をつける真輔シンスケに駆け寄る。

 肩を揺さぶられても、真輔シンスケは顔を上げなかった。

「ごめん……中邑ナカムラ

 消え入りそうな声を絞り出す真輔シンスケ。床についた両手が震えていた。

 それにより、何故彼がこんな事をしているのかに気づく。


 李子リコは、真輔シンスケに組み敷かれて途轍もない恐怖体験をした。


 どうやら、真輔シンスケにとってもあの行動は恐怖だったようだ。


「……津下ツゲくん。お婆ちゃんが、津下ツゲくんはきっと操られてたんだろうって。彼の本意じゃないだろうって言ってた。

 ……そうだよね?」

 李子リコはそう穏やかに言いながら、恐る恐る真輔シンスケの手に自分の手を置いた。

 一瞬、真輔シンスケの手がビクリして硬直する。

「……でも、意識はあったんだ……何をしたのか覚えてる。俺はっ……俺……」

 真輔シンスケは、手に残る彼女の首を絞めた感覚におののく。

「私、凄く怖かった」

 李子リコ真輔シンスケの手を取り、彼の顔を上げさせる。

津下ツゲくんは?」

 真輔シンスケが恐る恐る目を開けると、目の前に李子リコの顔があった。

 涙で潤んだ目。

 唇を噛んで、泣き出しそうなのを我慢して笑顔を作っていた。

「怖かった?」

 李子リコのその言葉に、あの時の状況がまざまざと脳裏に蘇る。


 身体中を物凄い勢いで駆け巡る、血と衝動。

 強烈な破壊衝動と、それを押し留めようとする理性。

 脳が爆発するんじゃないかという激しい葛藤と、言う事を聞かない身体。


「……こわかった……」

 真輔シンスケの目から、ポロリと一粒、涙が溢れた。

 李子リコは、真輔シンスケの手を両手でぎゅっと握る。

 顔をクシャクシャにして泣き笑いをした。

「一緒だね」


 その李子リコの顔を見て、真輔シンスケの中で渦巻いていた、恐怖と羞恥、そして強烈な自己嫌悪の感情が、穏やかに溶け出すのを感じた。


 彼女は、身体が恐怖を覚えていても、自分を許そうと努力してくれている。

 それがどれほどキツイ事なのか。

 空気の読めない真輔シンスケにも分かる。


 天龍テンリュウから隠れた時に抱きしめた李子リコの身体は小さかった。

 手足も細くて肩は柔らかかった。

 同い年なのに、別の生き物のように自分とは違う身体なのだと気づいた。


 いや、違う生き物なのだ。

 これが女の子。

 男とは違う成長をする生き物。


 ならば──男の俺が、守らなければ。


 今まで、自分の身体が無駄にデカイ事が少しコンプレックスだった。

 デカくて上手く思ったように動かない身体。

 手先は器用だったので、余計にこんなデカイ身体は無駄だ、いらないと思っていた。


 しかし違う。


 伸びる身長、大きな手足、筋肉がつきやすい身体。

 男の身体。

 何かを守る為に、強くなるようになっているのだ。


 そうなのだと、今気づいた。


 目の前で泣き笑いする女の子の手を逆に握り込んで、真輔シンスケは目から伝う涙を拭う事なく、唇を噛み締めた。

「もう……中邑ナカムラを絶対に傷つけない。絶対守る……」

 絞り出された真輔シンスケの言葉に、李子リコは顔をクシャクシャにして笑った。



 少年が、一歩、男として成長した時。

 少女もまた、考えを改めていた。


 自分の行動が、どう他人に影響を与えるのか。


 李子リコは今まで、思うがままに振舞って来た。

 周りの事は、あまり深く考えた事はなかったし、それでも問題なく生活出来ていた。


 でもそれではダメなのだ。


 自分の行動が、大なり小なり他人に影響を与える。

 直接的にだけでなく、間接的にも。

 周りの大人達が、何故李子リコの浅慮をいつも指摘して来たのかが分かった。


 いずれ、誰かを傷つけて取り返しのつかない事を招いてしまうかもしれないからだ。


 今まで気づかず生きてこれたのは、誰かが影で我慢していたり、フォローしてくれたりしてきたから。


 この場だけでも、姉、お婆ちゃん、四葉ヨツハ、先生、そして刀義トウギ

 こんなにも自分を守ってサポートしてくれる人達がいる。

 そして今、真輔シンスケまでもが自分を守ると言ってくれた。


 なんて恵まれているんだ。


 こんなに素敵な人たちに囲まれているのに、今まで全然気づかなかった。

 ちゃんと考えた事もなかった。


 これは、なんだ。


 刀義トウギを除くと、周りの人たちはただ巻き込まれただけ。

 それなのに、傷ついてまでも自分を守ってくれている。


 ならば、守られているだけではダメだ。

 自分が強くならなければ。

 そしてそれはという事ではない。


「私も、強くなってみんなを守る」


 少女は、少年に握られた両手を強く握りしめ、そう決意した。

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