第10話
葛藤。
それは、己との戦い。
動物としての本能と、人間としての理性の戦い。
それは果てしなく、そして過酷である。
名のある歴代の偉人たちも、中にはそれに負けて落ちぶれていった事もあっただろう。
自分は偉人たちに比べると矮小で愚かだ。
負けたって誰にも咎められない。
ならば──
いや。違う。それではダメだ。
教職という、子供達に道を示し模範として生きる職業の人間なのだ。
ここで負けてはいけない。
頑張れ自分。
負けるな自分。
己に打ち勝つ事こそが、自分を自分たらしめる云々カンヌン……
「せんせー。目の下凄いクマがあるよ? 大丈夫?」
片付けを手伝ってくれた
その事にやっと気づき、焦って困り笑顔を
「だっ……大丈夫だよ! ホラ、ここんところ暑くて寝付けなくてね……」
本当は別の事で寝れないワケだけれど、
無駄な心配は生徒にさせたくなかった。
明日から夏休みという、夏前最後の出勤日。
午前で全ては終わり殆どの生徒が帰宅していたが、
恐らく、両手いっぱいに荷物を抱えていてバランス悪く見えたのだろう。
帰宅途中だったのだろう、肩には鞄を下げている。授業がない為ペタンコのその鞄には、自己主張が激しいゴリラのチャームが揺れていた。
「先生は夏休み学校来るの?」
職員室へ向かう道すがら、
随分自分より小柄な生徒を横目で見下げながら、
「ははっ……来ないよ。僕は非常勤だからね」
そう答えると、
そう。
彼は非常勤の体育教諭である。
基本、授業のある日しか出勤しない。
なので、当然この日も出勤する必要はなかった。出勤しても授業がないので無給である。
普段、出勤日以外の日はアルバイトをしていたが、今日はアルバイトもなかった。
本来は『休み』の日である。
しかし、彼──
「加湿器つけるとエアコン入れても喉痛くならないらしいよー!」
手伝いが終わって帰宅する間際、
夜寝る時にエアコンが苦手で入れられないから寝付けないと思ったのだろう。
良い子だ。
そんな彼女のアドバイスを胸に、
帰りたくなくても、帰らないという選択肢は選べないのだから。
──と言いつつも、出来るだけ帰宅の時間を引き延ばすために、用もないホームセンターへ寄ったり本屋で立ち読みしたり飲みたくもない珈琲を飲みに喫茶店に行ったりしていたが。
築20年越えの賃貸の古マンションの一室。
自宅の扉の前で、彼は呼吸を整える。
よし、頑張れ自分。自我を手放すなよ。これは戦いだ。
自分にそう言い聞かせ、気合いを入れて扉を開ける。
すると──
「おかえりなさい、
お風呂にしますか? ご飯にしますか? それともわた──」
パタン。
今入れた気合いが一発で霧散した。
手放すまいとした自我が危うく崩壊しかけた。
色んな意味で。
キツイ……
色んな意味でキツイ……
神は俺を試していらっしゃるのか……
「もう。なんで入って来ないんですか?」
物凄い力で扉が内側から開け放たれる。
ドアノブに掛けていた
扉の向こうには、先程ステレオタイプの新婚セリフを放った女性が、紅い唇を尖らせて立っていた。
その姿はさながら──
「わぁぁぁ!!」
先程扉を開けた馬鹿力は何処へやら、女性はペタリと床に倒れこみ、潤んだ琥珀色の瞳で
「もう、こんな所でですか?
しどけない様子で床に手をついて
「なんで裸エプロンなんですかっ!!」
しっとりとした白い肌、スラリと艶かしく伸びる肢体、豊満な凹凸をカーキ色の男物エプロンだけで隠した──俗に『肌エプロン』といわれるその状態で、女性はキョトンと
「
何が間違っているのか分からない──そんな表情の彼女に、慌てて
あられもないその姿を極力見ないように視線を逸らしつつ、頭の中では般若心経を唱えていた。
最初はうろ覚えだった般若心経も、今や完璧に唱えられる。坊さんに混じっても負けない自信がある程だ。
それほどの回数頭の中で繰り返していた。
「ホントに……いい加減にして下さい。渡したジャージはどうしたんですか?!」
そう、
しばらく前に、学校帰りに声をかけた美女だ。
あの日。
美女に声をかけたら抱き着かれ、ひたすら混乱のルツボに叩き込まれた
勢いでその女性を自宅のマンションまで連れて帰ってしまったあの日から──
幻であってくれと祈っていても事態は好転しないと気づいた
状況をなんとか把握し、改善する。
取り敢えず、
しかし、帰ってきた答えは意外なものだった。
「名前はまだありません。貴方が付けてください」
日本女性らしい薄い顔は柔和で、どこか幼さを感じさせる。切れ長の一重の目がジッと
目が合うと、花が
途端に、心臓をギュッと鷲掴みにされたかのように血の唸りを感じた
ポロシャツの胸元をギュッと掴んで耐える。
「まだないって、どういう事ですか?」
冷静を装ってそう尋ねた。
すると、彼女は人差し指を唇に押し当て、うーんと悩んでいる顔をする。
「原因は分かりません。会社とも連絡が取れませんし。支社の場所まで出向いたんですが、人はおりませんでした。なので、あそこで待機していたんです」
──ダメだ。彼女の言葉が全く頭に入ってこない。
「貴方が起こしてくれました。なので貴方が付けてください。……名前」
「……なまえ……」
冷静なんぞなれず、ただ美女に言われた単語を繰り返す。
「そうですね。困った時には花の名前がよろしいかと」
「……はなのなまえ……」
「貴方のお好きな花はなんですか?」
「……すきなはな……」
何も考えられない。
「……す……すずらん……」
やっとこさ頭に浮かんだ花の名前を、なんとか口から絞り出した。
何故その花が思い浮かんだのか分からない。
ただ、彼女を見て浮かんだ花の名前をそのまま口にした。
すると、美女は朗らかに笑う。
「
両手を胸の前で組み、自身に押し付けた。
すると、服で隠されていた豊満な山が二つ、強調される。
更に上がる
心臓が肋骨を突き破って出てきそうだ。もしくは口から。
「そういえば、貴方は何とお呼びすれば良いのでしょうか? 表での呼び方と、二人っきりの時の呼び方を教えてください」
美女──
息がかかるほど近くに。
「……ひ……
喉がカラカラで声が裏返った。
「
聞いた名前を繰り返し、
「うわぁぁぁ!!」
立ち上がって裸足のまま玄関から飛び出した。
頭の中で反響する、美女の潤んだ琥珀色の瞳とポッテリと柔らかそうな唇。そして、自分の名前を呼んだ
それが消えるまで、
──あの日以来、
お陰で、筋肉の付きにくい身体なのに細マッチョになれた。
なろうとは1mmも思ってなかったのに。
そんな
「何故拒否するのですか? 私のことがお気に召しませんか?」
「違います! 前にも言った通り、貴女が気にいる気に入らないという問題ではないんです!」
「では何故? 私に触れてくれないのですか?」
「だから! そういった事はですね! ちゃんと付き合ってる者同士じゃないとダメなんです!」
「じゃあ、私とお付き合いして下さい」
「できません!」
2本では足りないと感じて、
「どうして……?」
「付き合うっていうのは、人が人と情愛の絆を結ぶ事です! 貴女のそれとは違う! それに! 貴女と『付き合う』という意味での絆はまだ結ぶべきじゃない! 貴女とは人としてまず──」
汗だくの彼のシャツの裾を、
今まで、グイグイ迫ってくることはあっても、そんないじらしい事をしなかった為、
「なっ……」
何を──
「貴方は、私を人として扱おうとしてますか? 私と……まず友達になろうと、そう言って下さってるのですか?」
今まで纏っていた
例えて言うなら風呂上がりのサッパリとした雰囲気。
計算されたものが何もない素朴な顔を、
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