第10話

 加狩カガリ弘至ヒロシは葛藤していた。



 葛藤。

 それは、己との戦い。

 動物としての本能と、人間としての理性の戦い。

 それは果てしなく、そして過酷である。

 名のある歴代の偉人たちも、中にはそれに負けて落ちぶれていった事もあっただろう。


 自分は偉人たちに比べると矮小で愚かだ。

 負けたって誰にも咎められない。

 ならば──

 いや。違う。それではダメだ。

 教職という、子供達に道を示し模範として生きる職業の人間なのだ。

 ここで負けてはいけない。

 頑張れ自分。

 負けるな自分。

 己に打ち勝つ事こそが、自分を自分たらしめる云々カンヌン……


「せんせー。目の下凄いクマがあるよ? 大丈夫?」

 片付けを手伝ってくれた中邑ナカムラ李子リコが、弘至ヒロシの顔を下から覗き込んできていた。

 その事にやっと気づき、焦って困り笑顔を李子リコに向ける。

「だっ……大丈夫だよ! ホラ、ここんところ暑くて寝付けなくてね……」

 本当は別の事で寝れないワケだけれど、加狩カガリ弘至ヒロシは教師である。

 無駄な心配は生徒にさせたくなかった。


 明日から夏休みという、夏前最後の出勤日。

 午前で全ては終わり殆どの生徒が帰宅していたが、弘至ヒロシは廊下をすれ違った馴染みの生徒に声をかけられた。

 中邑ナカムラ李子リコである。

 恐らく、両手いっぱいに荷物を抱えていてバランス悪く見えたのだろう。

 李子リコはそういった事を敏感に察知し手伝いを申し出てくれる、教師としては有り難い生徒だった。

 帰宅途中だったのだろう、肩には鞄を下げている。授業がない為ペタンコのその鞄には、自己主張が激しいゴリラのチャームが揺れていた。


「先生は夏休み学校来るの?」

 職員室へ向かう道すがら、李子リコがそう弘至ヒロシに尋ねてきた。

 李子リコたち生徒からすると、常勤教師も非常勤も同じに見えるのだろう。

 随分自分より小柄な生徒を横目で見下げながら、弘至ヒロシは曖昧に笑う。

「ははっ……来ないよ。僕は非常勤だからね」

 そう答えると、李子リコはへーそうなんだぁと漏らした。多分、よく分かってない。


 そう。

 彼は非常勤の体育教諭である。

 基本、授業のある日しか出勤しない。

 なので、当然この日も出勤する必要はなかった。出勤しても授業がないので無給である。

 普段、出勤日以外の日はアルバイトをしていたが、今日はアルバイトもなかった。

 本来は『休み』の日である。


 しかし、彼──加狩カガリ弘至ヒロシには、家に居たくない理由があった。

 弘至ヒロシの目の下にあるクマの原因でもある。



「加湿器つけるとエアコン入れても喉痛くならないらしいよー!」

 手伝いが終わって帰宅する間際、李子リコはワザワザそう告げて帰って行った。

 夜寝る時にエアコンが苦手で入れられないから寝付けないと思ったのだろう。

 良い子だ。

 弘至ヒロシは彼女の思い遣りに胸を熱くする。


 そんな彼女のアドバイスを胸に、加狩カガリ弘至ヒロシは帰宅した。

 帰りたくなくても、帰らないという選択肢は選べないのだから。

 ──と言いつつも、出来るだけ帰宅の時間を引き延ばすために、用もないホームセンターへ寄ったり本屋で立ち読みしたり飲みたくもない珈琲を飲みに喫茶店に行ったりしていたが。


 築20年越えの賃貸の古マンションの一室。

 自宅の扉の前で、彼は呼吸を整える。


 よし、頑張れ自分。自我を手放すなよ。これは戦いだ。


 自分にそう言い聞かせ、気合いを入れて扉を開ける。

 すると──

「おかえりなさい、弘至ヒロシさん。

 お風呂にしますか? ご飯にしますか? それともわた──」


 パタン。


 加狩カガリ弘至ヒロシはそのまま扉を閉じた。

 今入れた気合いが一発で霧散した。

 手放すまいとした自我が危うく崩壊しかけた。

 色んな意味で。


 キツイ……

 色んな意味でキツイ……

 神は俺を試していらっしゃるのか……


 加狩カガリ弘至ヒロシは、扉に手をかけたまま、項垂れて自問自答を繰り返していた。

「もう。なんで入って来ないんですか?」

 物凄い力で扉が内側から開け放たれる。

 ドアノブに掛けていた弘至ヒロシの手が弾かれた。

 扉の向こうには、先程ステレオタイプの新婚セリフを放った女性が、紅い唇を尖らせて立っていた。

 その姿はさながら──

「わぁぁぁ!!」

 加狩カガリ弘至ヒロシは、女性の格好に気がついて、彼女を部屋に押し込んで慌てて玄関の扉を閉める。

 先程扉を開けた馬鹿力は何処へやら、女性はペタリと床に倒れこみ、潤んだ琥珀色の瞳で弘至ヒロシを見上げた。

「もう、こんな所でですか? 弘至ヒロシさんたら、意外に大胆♡」

 しどけない様子で床に手をついて弘至ヒロシを見上げる女性──鈴蘭スズランに、弘至ヒロシは全力でツッコミを入れる。


「なんで裸エプロンなんですかっ!!」


 しっとりとした白い肌、スラリと艶かしく伸びる肢体、豊満な凹凸をカーキ色の男物エプロンだけで隠した──俗に『肌エプロン』といわれるその状態で、女性はキョトンと弘至ヒロシを見上げた。

弘至ヒロシさんは古風なお考えをお持ちでいらっしゃるから、古典的な方がよろしいのかと思いまして」

 何が間違っているのか分からない──そんな表情の彼女に、慌てて弘至ヒロシはバスタオルを被せる。

 あられもないその姿を極力見ないように視線を逸らしつつ、頭の中では般若心経を唱えていた。


 最初はうろ覚えだった般若心経も、今や完璧に唱えられる。坊さんに混じっても負けない自信がある程だ。

 それほどの回数頭の中で繰り返していた。


「ホントに……いい加減にして下さい。渡したジャージはどうしたんですか?!」

 鈴蘭スズランを──というか、裸エプロンを見ずに済むように、荒々しく部屋へと入って行った。


 そう、加狩カガリ弘至ヒロシの寝不足の種──鈴蘭スズラン

 しばらく前に、学校帰りに声をかけた美女だ。


 あの日。


 美女に声をかけたら抱き着かれ、ひたすら混乱のルツボに叩き込まれた弘至ヒロシ

 勢いでその女性を自宅のマンションまで連れて帰ってしまったあの日から──


 加狩カガリ弘至ヒロシは葛藤し続けている。



 幻であってくれと祈っていても事態は好転しないと気づいた弘至ヒロシは、連れ帰った美女と向かい合う事を決心した。

 状況をなんとか把握し、改善する。

 加狩カガリ弘至ヒロシは、その外見から打たれ弱く見えるが、実は逆境にも強い雑草タイプであった。


 取り敢えず、弘至ヒロシは美女に名前を尋ねた。

 しかし、帰ってきた答えは意外なものだった。


「名前は。貴方が付けてください」

 日本女性らしい薄い顔は柔和で、どこか幼さを感じさせる。切れ長の一重の目がジッと弘至ヒロシを見返している。

 目が合うと、花がほころぶかのように笑った。


 途端に、心臓をギュッと鷲掴みにされたかのように血の唸りを感じた弘至ヒロシ

 ポロシャツの胸元をギュッと掴んで耐える。

「まだないって、どういう事ですか?」

 冷静を装ってそう尋ねた。

 すると、彼女は人差し指を唇に押し当て、うーんと悩んでいる顔をする。

「原因は分かりません。会社とも連絡が取れませんし。支社の場所まで出向いたんですが、人はおりませんでした。なので、あそこで待機していたんです」


 ──ダメだ。彼女の言葉が全く頭に入ってこない。

 弘至ヒロシは、激しいる動悸に呼吸も荒くなりつつ、ただ、美女のそのポッテリとした魅力的な唇から視線を外せなかった。


「貴方がくれました。なので貴方が付けてください。……名前」

「……なまえ……」

 冷静なんぞなれず、ただ美女に言われた単語を繰り返す。

「そうですね。困った時には花の名前がよろしいかと」

「……はなのなまえ……」

「貴方のお好きな花はなんですか?」

「……すきなはな……」


 何も考えられない。

 加狩カガリ弘至ヒロシは混乱している。


「……す……すずらん……」

 やっとこさ頭に浮かんだ花の名前を、なんとか口から絞り出した。

 何故その花が思い浮かんだのか分からない。

 ただ、彼女を見て浮かんだ花の名前をそのまま口にした。


 すると、美女は朗らかに笑う。

鈴蘭スズラン。素敵なお名前。ありがとうございます」

 両手を胸の前で組み、自身に押し付けた。

 すると、服で隠されていた豊満な山が二つ、強調される。

 更に上がる弘至ヒロシの心拍数。

 心臓が肋骨を突き破って出てきそうだ。もしくは口から。

「そういえば、貴方は何とお呼びすれば良いのでしょうか? 表での呼び方と、二人っきりの時の呼び方を教えてください」

 美女──鈴蘭スズランは、前のめりになって弘至ヒロシに顔を寄せる。

 息がかかるほど近くに。

 弘至ヒロシは、その寄せられた顔に吸い付きたい欲求を、辛うじて残るカスのような理性でなんとか抑え込む。

「……ひ……弘至ヒロシで……」

 喉がカラカラで声が裏返った。

弘至ヒロシさん」

 聞いた名前を繰り返し、鈴蘭スズラン弘至ヒロシの顔にそっと手を添える。


「うわぁぁぁ!!」

 弘至ヒロシ、絶叫。

 立ち上がって裸足のまま玄関から飛び出した。

 頭の中で反響する、美女の潤んだ琥珀色の瞳とポッテリと柔らかそうな唇。そして、自分の名前を呼んだなまめかしい声。

 それが消えるまで、弘至ヒロシはご近所中をひたすら全力疾走した。



 ──あの日以来、弘至ヒロシは自分の気持ちに仄暗い下心が芽生える度に身体を痛めつけた。100本ダッシュ、腹筋背筋腕立て伏せにスクワット。


 お陰で、筋肉の付きにくい身体なのに細マッチョになれた。

 なろうとは1mmも思ってなかったのに。


 そんな弘至ヒロシに、バスタオルで巻かれた鈴蘭スズランは不満そうに声をかけた。

「何故拒否するのですか? 私のことがお気に召しませんか?」

「違います! 前にも言った通り、貴女が気にいる気に入らないという問題ではないんです!」

 弘至ヒロシは2リットルのペットボトル2本を抱えてスクワットをしている。

「では何故? 私に触れてくれないのですか?」

「だから! そういった事はですね! ちゃんと付き合ってる者同士じゃないとダメなんです!」

「じゃあ、私とお付き合いして下さい」

「できません!」

 2本では足りないと感じて、弘至ヒロシはペットボトルをもう1本抱え込んだ。

「どうして……?」

「付き合うっていうのは、人が人と情愛の絆を結ぶ事です! 貴女のとは違う! それに! 貴女と『付き合う』という意味での絆は結ぶべきじゃない! 貴女とは人としてまず──」

 弘至ヒロシが、3本でも足りない気がして、もう1本ペットボトルを足そうとした時だった。

 汗だくの彼のシャツの裾を、鈴蘭スズランがキュッと握った。

 今まで、グイグイ迫ってくることはあっても、そんないじらしい事をしなかった為、鈴蘭スズランのそんな行動に驚いて、ペットボトルを取り落す弘至ヒロシ

「なっ……」

 何を──

 弘至ヒロシが身構える前に、鈴蘭スズランが口を開く。


「貴方は、私をとして扱おうとしてますか? 私と……まず友達になろうと、そう言って下さってるのですか?」


 今まで纏っていたなまめかしい身のこなしもなく、こちらを伺い試すような表情もない。

 例えて言うなら風呂上がりのサッパリとした雰囲気。


 計算されたものが何もない素朴な顔を、鈴蘭スズランは真っ直ぐに弘至ヒロシに向けていた。

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