第2話

『ああ、こんなシーン、なんか見た事ある。

 ……映画で』


 その余りの出来事に、中邑ナカムラ李子リコの思考は現状を理解する事を放棄した。

 同じく棚橋タナハシ四葉ヨツハも言葉を失って、目の前に現れたその男を呆然と見上げているだけ。


 二人の視線の先──ちゃぶ台の上には──


 贅肉などなさそうな筋骨隆々とした巨躯からは、湯気のような煙が立ち上っている。

 固そうな筋肉が纏わり付いた手足を折り曲げ、片膝と両手をちゃぶ台についてしゃがみこんでいた。

 短く刈り込んだ黒い頭髪、そして口元には丁寧に手入れされた髭が蓄えられており、多少皺が刻まれた顔に渋みを与える。


 しかし



 真っ裸マッパだ。



 紛う事なく


 真っ裸マッパだ。



 夕方の茶の間。


 テレビでは身体は子供頭脳は大人のアニメが緊迫した空気を醸し出している。

 天井からは古臭い吊り下げ型の電灯がぶら下がっており、紐の先には人気の電気鼠の小さな人形が。

 ちゃぶ台の上には、李子リコ四葉ヨツハ二人分の教科書とノートが広げられており、二人は向かい合うように座っていた。

 二人の前に置かれた、麦茶の入ったコップから結露が滴り落ち、氷がカランと音を立てる。


 それは、普通の夕方の日常風景。



 ──ただ、真っ裸マッパの男だけが、異質だった。



 ミシミシと木が軋んだ音がした瞬間、

 木が砕ける音とともに男の巨躯が床へと沈む。

 男が乗ったちゃぶ台が、その体重を支えきれずに無残に力尽きたのだ。


 その瞬間──


「きゃあああああああ!!!」

 棚橋タナハシ四葉ヨツハが弾かれたようにその場から飛び退いて悲鳴を上げた。

 四葉ヨツハの悲鳴により現実に引き戻された李子リコも、慌てて立ち上がって四葉ヨツハに駆け寄る。

「何なにナニっ?!」

「分かんないっ」

 二人はワタワタと慌てて男から距離を取る。

 しかし、目の前の『真っ裸マッパの男が突然現れた』事実にまだ現実感が伴わず、壁際に二人で身を縮めて男の様子を伺っていた。


 歪んだ畳に半ばめり込んだ男は、それ以上畳が沈まないようゆっくりと立ち上がると、壁に這うように張り付く二人の顔をマジマジと見つめる。

 そして──


中邑ナカムラ李子リコはどちらですか」

 棚のガラス戸が共鳴しそうな重低音の渋い声で、そう二人に声をかけた。


 声もなく、四葉ヨツハを前に押し出す李子リコ

「ええっ?!」

 何故か身代わりにされた四葉ヨツハは、自分の背中に隠れようとする幼馴染に抗議の声を向ける。


 男は紅く光る瞳孔を四葉ヨツハに向け──

「顔認証エラー」

 そう短く呟いた。


 その瞬間。

四葉ヨツハ! 逃げよう!」

 幼馴染の手首を掴み、目にも留まらぬ速さと勢いで茶の間から縁側──庭へと飛び出す李子リコ

 さっきは身代わりにしようとしたクセに──

 四葉ヨツハは抗議の言葉が頭に浮かんだが、構わず李子リコに手首を引かれるまま走った。

 抗議より、まずは目の前の変態マッパから逃げる事が先決だ。


 靴下のままである為、足の裏に時々小石を踏んづけた痛みが走る。

 しかし今はそれどころではない。

 二人は転げるように道路へと飛び出した。


 家の前の細い道を駆け抜け、路地へと逃げ込んでブロック塀の陰に滑り込む。

 身を出来るだけ縮めて二人は向かい合った。

「アレなに?! 降って来た?!」

 恐怖のあまり李子リコの声はひっくり返っている。

「降って来ない。人はっ……天井からは、降って来ないっ……」

 四葉ヨツハは全力で否定した。

 あの瞬間、彼女は李子リコと同じように降って来たのだと思い天井を一瞬見たのだが、天井には何も変化がなかった。


 本当にのだ。


 可能性があるとしたら、二人が宿題に集中していた隙に、茶の間に入ってきてちゃぶ台に上がったという事だが、

 流石にゴリラのような大男が真っ裸マッパで横を通ったら気づくハズ──


 というか、何故真っ裸マッパ


 四葉ヨツハは、次第に冷静さを取り戻しつつある頭でそう考えていた。


 片や李子リコの方は、男の裸の肌色が頭を埋め尽くして冷静などとは程遠い思考状態に陥っている。


 見てはいけないものをみてしまったき気がするがどうだろう?

 見えた?

 いや、見てない。

 見てない……けど見えた?

 ちょっと待って?

 なんかこのシーン見たことある。

 映画?

 映画?

 どの映画??


 思春期の少女には、ゴリゴリマッチョの全裸は刺激が強過ぎたようだ。思考能力の全てが奪われてしまったよう。

 逃げだせたのは、彼女の持つ天性の反射神経と逃げ足の速さが本能的に身体を動かしたからだ。

 彼女は何故か、あの真っ裸マッパの男が現れたあの瞬間を、どの映画で見たのかをひたすら思い出そうといた。


李子リコ……どうしようか。スマホ持ってきた? 通報したいんだけど……」

 四葉ヨツハは、念の為何度かスカートのポケットに手を突っ込んで確認する。

 しかし、ちゃぶ台の上に置いていたハズのものが自然とポケットに滑り込むワケはないと諦めた。


 目の前の幼馴染は四葉ヨツハの声が聞こえていないようで、何故か虚空を見つめて口の中だけで何かブツブツ呟いている。

 瞳孔が開いて焦点が合ってない事に気付いた。

「怖っ」

 思わずそう漏らした瞬間、弾かれたように幼馴染が顔を上げた。

「思い出した! アレだよアレ! なんだっけ名前! 確か……えーと……た……た……ターミ──」

「貴女は中邑ナカムラ李子リコですか?」


 ブロック塀の向こう側から髭面が、しゃがんで縮こまった二人を見下げていた。


「「ぎゃああああああ!!!」」



 二人の悲鳴が、綺麗にハモってご近所中に轟き渡った。

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